誠実を尚び虚偽を賎むこと、是れ古今の通則にして、東西の一致する所なり、仏教の十戒に不妄語といひ、「ジヤイナ」派の五戒に欺騙する勿れと 云へり、又摩西の十戒にも「爾の隣人に妄証する勿れ」とあり、凡そ聖人と して尊崇せらるヽもの虚偽を戒めざるはなし、中斎殊に虚偽を戒め、誠 実を守ること」厳なり、学堂の西掲に「入吾門学道以忠信不欺為主本」の文 字を記し、入門の学生には先づ此事を盟はしめたり、中斎が学、良知を以 て其主義となすが故に、己れを欺き人を欺かんか、是れ良知に反するの 所行なり、己れを欺かず、人を欺かず、唯々,誠実の心を以て万喜事を貫かば良知の功用、顕はれずといふことなし、是れ彼れが虚偽を去るの説を立つ る所以なり、箚記の下に云く
良知を致すの学、但々人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなきなり、而して其功夫、屋漏より来たる、戒慎と恐懼と須臾も遣るべからざるなり、 一旦豁然として天理を心に見る即人欲釈凍解す、是に於て、当に洒脱の妙、此れに超ゆるものなきを知るべし、
又箚記の上に中庸の語を引いて云く、
これを身に本づけ、これを庶民に徴し、これを三王に考へて繆らず、これを 天地に建てゝ悖らず、これを鬼神に質して疑なく、百世以て、聖人を俟ちて惑はず、一言一動、必ず此の如くにして心性晶亮広大、天地日月と一般云云
是れ誠実の心を以て万事を貫き、其思惟する所、其行動する所、毫も不 善の浪迹なきを以て能く此に至るを得るなり、中斎は胸中の誠実、自ら 言貌に現はるゝが故に到底隠蔽すべからずとせり、箚記の下に云く、
言貌の文のみ、則ち君子親信せず、而して情と誠とあらば、則ち言貌の 丈なしと雖も、必ず之れを親信するなり、况んや其言貌に見はるゝを や、呂新吾先生曰く、情足らずして而して之れを文る言を以てす、其 言親むべからざるなり、誠足らずして而して之れを文るに貌を以て す、其貌信ずるに足らざるなり、是を以て天下の事、真を貴ぶ、真掩ふべ 503 からずして之を言貌に見はす、其れ親むべく、信ずべきなるかな、と
肝是言や人を知るの鑑なり、
是れ孔孟の已に道破する所にして、殊に大学に所謂誠於中形於外は即 ち此事に外ならざるなり、ヤコブ、ボエム氏曰く
天地間にあるものは一として其内面的の情状を外面に発現せざるはなし、何となれば、内面的のものは常に外面に表出せんとする傾向あればなり、
是れ氏が万物に就いて立論せし所なれども、人類の相貌の如きも亦此傾向なしとせざるなり、