中斎にあリては、詞章記誦は学問の目的にあらず、学問は唯々我心を正うするを以て目的とすべきものなり、何故に我心を正うするを要するかなれば、是れ道徳の由りて立つ所なればなり、中斎は独り道徳を闡明するを以て学問唯一の職分なりと思惟せり、
箚記の上に云く
又箚記の下に云く、
聖学の要、読書の訣、只放心を求むるのみ、此外更に学なし、亦奚ぞ疑ふに足らんや、
若し学問によりて我心を正うするを得ば、良知是に於てか光を放ちて来たり、仁といひ愛といふもの、我方寸の中に萌ざゝずといふことなし
然れども東亜諸国の如く古来家族制 Patria Potesta の行はるゝ処にありては、先づ一家の中に於て家長に対して仁愛の情を表すること最も重大の事件たり、故に孝を以て第一となす、
学名学則の中に言へるあり、云く、
又藤川晴貞に答ふる書に云く、
博愛なり、徳義なり、敬譲なり、礼楽なり、好悪なり、忠孝の一徳に帰す、驕なり、乱なり、争なり、総べて不孝に帰す、万善万悪、要するに、孝と不孝とに帰するのみ、
此れに由りて之れを観れば、中斎は藤樹の如く孝を広義に解するものなり、彼れ此の如く我心を正うし、孝徳を全うするを学問の正鵠とするが故に、博く外界の万物を究明するの余裕を有せず、単刀直入、我精神上に向つて工夫を下だし来たる、之れを要するに、実践躬行を期するものなり、
箚記の下に云く、
書を読まば、則ち心得躬行を貴ぶ、
是れ其意を述ぶるものなり、
箚記の二巻、徹頭徹尾、道義に関するの論にして絶えて閑文字なきもの、之れが為めなり、唯々私欲といふものありて学問を妨け、人をして薄志弱行ならしむ、故に学問に志さば、先づ私欲を打払はざるべからず、中斎乃ち之れを論じて云く、
真に学を死すものは、則ち先づ斯慾を去らざるべからざるなり、斯慾を去るの工夫、亦只其義に当りてや、其身の禍福生死を顧みずして、果敢之れを行ひ、其道に当りてや、其事の成敗利鈍を問はずして公正之れを履まば、則ち其慾日に薄うして道義終に家畜茶飯となる、
仮令ひ私欲を打払ふも、若し学問の目的を誤りて、詞章記誦を事とせば、遂に邪路に陥らざるを得ず、
中斎乃ち博物の学の徒為なるを論じて云く、
太虚の理を知らずして、而して草木の花を精算し、又其蕊を縷析し、玉石の文を細看し、又其理を織別す、便ち是れ日も亦足らず、労して功なし、学の此れに類するものあり、知らざるべからざるなり、如し亦虚の理を了し得ば、則ち万物皆其中にあり、花蕊文理なるもの、其陶鋳の然らしむる所なり、故に精算と縷析と、細看と知別と、労せずして其効を見る、
此の如くなれば、動植物学を始めとし、凡そ外界の現象を攻究するの学科は悉々く無用とならん、古来儒致の通弊は実に自然科学を賤視するにあり、然れども陽明学派を以て最も甚しとなす、是れ矯正せざるべからざる所なり、
中斎が太虚の理さヘ了解すれば、自然科学を学修せざるも、其理は自ら明瞭なるに至るものとするは、荒誕無稽、取るに足らざるの説なり、然れども徒に識知の一方に馳せて、我心を正うするの要を思はざれば、学問の法を誤まらざるを必とし難し、
箚記の上に云く、
書は固より道に入るの具なり、然れども要を知らずして泛観博覧せば、則ち徳壊れて悪殖ゆ、吁、亦己を敗り世を乱る、慎まざるべけんや、
又云く、
若し私情に従ひ、我意に任せ、以て言動せば、則ち胸、万巻に富むと雖も、要するに、書庫のみ、貴ぶに足らざるなり、
寛政以後、世の学者、詩文に耽けらざれば、考証に流れ、道徳を以て自ら任ずるもの、寥々として暁天の星の如し、斯時に当りて中斎の如き痛快の言をなす、万緑叢中一点紅と請ふべきなり、中斎は唯々道徳を修めて、聖賢の域に躋らんと欲するのみ、是故に富貴利達は其志を奪ふに足らざるなり、
箚記の上に云く、
丈夫の業は、聖賢惟々是れを期するのみ、何の富貴利禄をか羨まん、
中斎己に此の如き志あるが故に、世の英雄豪傑と称するものの、道徳心より起らずして、情欲上より動くを罵倒して夢中の伎倆といひ、禽獣の為に踰ゆといへり、
箚記の上に云く、
夫れ古今の英雄豪傑は、多く情欲上より做し来たる、情欲上より做し来たれば、則ち驚天動地の大功業と雖も、要するに、夢中の伎倆のみ、
又箚記の下に云く、
欲路上の大英雄は、志を一時に得と雖も、而も醜を千歳に流し、父母の名を毀ち、禽獣のために踰ゆ、三尺の童子と雖も、其悪に切歯す、云云
中斎が此言洵に適中せり、英雄豪傑の事業、爽快の感なきにあらざるも、道徳心より起らざる以上は、毫も称揚するに足らず、拿破列翁の如きも、畢竟制すべからざる大盗に過ぎず、道徳を以て自ら任ずるものより之れと見れば、何ぞ称揚するに足らんや.況や拿破列翁に及ばざるものに於てをや、