『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
三 真山氏は醜行ありとする
しかし真山青果氏の史劇『大塩平八郎』では、この平八郎の不倫の私行を事実であるとしてゐる。前にも断つたやうに仮ひ戯曲であっても、史実の考証精密で博捜な真山氏においては之を見逃す訳にはゆかないのである。即ち、同劇の第一幕の中に、平八郎の門弟たちが密通の一件を噂する次のやうな一節がある。
けれども名義は立ちませう。格之助さんとおみねさまとの約束が変改になつた以上、例へ養女に子を産ませたと云ふ蔭口はあるかも知らんが、養子の嫁【女息】(よめ)を奪つたと云ふ非難をうける筈はないと思ふ。なあ、渡辺。 | |
渡辺 | 拙者なども然う考へますなあ。格之助様には一昨年先生血統の姪御さまを迎へて、既に許嫁の御披露まで済んだのだから、おみねさまと格之助様の縁はきれて居ります。 |
瀬田 | 然う云へば然うだが、兎に角一度は… 養子にとして貰ひうけたおみねさまだ。それにおいくさんは、許嫁と云つても、八歳の小児だ。些と何うも、格之助が腑甲斐なさ過ぎるよ。 |
(中略) | |
瀬田 | 格之助君の孝行は余りに形式に泥むよ。あれは務めだ。真情がない。 |
(中略) | |
小泉 | (不服さうに) 然うかなあ… 。わたしは先生の恥にはならないと思つてゐた。 |
瀬田 | 名目の問題ぢやない、心持のうへの話だ。 |
小泉 | 然し第一、格之助さんとおみねさんと結婚すれば、両方とも養子養女で、大塩家の血統は断絶しますよ。おいくさんと格之助さんが一緒になれば……。 |
また第四幕の、高弟宇津木が師の平八郎に向つて諌言する場面に、
なる程先生の近状には、俗人にもあるまじき失行があつた。然しそれとて致方はありますまい。自ら赦さないで、他人の誰がその過を赦し得ませう。あなたはもはや嬰児さんを膝に抱かれてもいゝ。本性のまゝに愛されていゝと思ふ。過ちのあるところに人間を見る。わたしはあなたの過失を見て、却つて人としての親しみを覚えたやうな気さへした。(下略) |
とある。これは真山氏の養女に通じた平八郎の不倫な行為についての弁護であると見てよい。森鴎外の『大塩平八郎」の附録には、この事件については何等記すところがない。返忠の吉見九郎右衛門の密訴状中かゝる私行をあばくは就中道理を弁へぬ仕儀ではあるが、これが果して虚に吠える『逃吠』に過ぎな かつたか。咬菜秘記の弁護がこの醜聞を解くに充分力あるものであらうか。