Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.2
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その11
『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
◇禁転載◇
二 咬菜秘記の弁護
平八郎として到底あるまじき醜行について、坂本鉉之助の咬菜秘記では、左のやうに之を弁駁してゐる。先づ幕府が裁許書にかヽる私行を記載したことを責めて、
此一條は、平八郎学文の弟共(弟子)の中に貞(坂本鉉之助自らを呼ぶ)が存じたるもの両三人も更に左様の事はあるまじくと申ものあり。貞が心中にも是は一向に合点参らず。罪状に何故ケ様の事迄書載られし事か、大阪市中の者抔、平八郎の事を難有がるもの多き故、其人気をくじく為か。必竟、此度の罪科は反逆にて、ケ様の事は仮令実にもせよ、其身一分の科にて、此度の罪科に申さば枝葉の事なり。書載られすとも、然るべくや、況や其事実にもあらずば猶更なり。
といひ、次に、平八郎父子の間礼儀正しきことを述べて
貞が合点の参らぬど申す子細は、格之介といふは同組西田某が家より大塩へ養子になりし人にて、通例の人物なり。然る処、貞、大塩へ参り平八郎へ対面致し候節、格之介当番の出掛、又は帰宅の砌は平八郎へ必す出入を告ることなり、其様子を見るに如何にも養父の前にて慇懃丁寧の様子、信実養父を敬礼の体にて、次の間敷居の外より謹で出入を告げ、扨、貞抔へ挨拶を致す迚も、平八郎の居る時は必す敷居の外より挨拶ありて、如何様に此方より『御這入候ヘ』と申ても這入らす、平八郎一言『さらば這入て御挨拶申せ」ど云はぬ中は、決して這らぬ。其恭敬の容体、実に感心のことなり。
或又、平八郎より先へ貞等が前へ出て挨拶する時は、直に体座へ出て拶拶なり。若し初ての同道人抔ありて、此方より姓名を『何の某』と名のりて挨拶の時は、逸々もあの方よりも其通『何の某様か』と又姓名を復称して挨拶し、其上平八郎の所へ参り、何の某、何の某同遣あり、と一人も不残、其姓名を告て通ずるなり。
といつて、また次のやうに此の伝へを否定してゐる。
此の大塩父子の如くあらば如何に養子なればとて、親の慈愛も日々に厚かるべく、孝敬も月々に深かるべく(中略)と其時甚だ感服せし事なり。扨騒動の時、外に一味の人々とは大和路辺にて悉く分散して、平八郎格之助御両人ひそかに立戻りて油掛町に潜み居、既にあらはれて捕人のかゝりし時も格之助の自殺を平八郎手伝、其上疊二疊格之助の死体の上へ建掛て火を付、平八郎其後自殺のよしなり。平八郎も実に我子なりと慈愛して頼に思へばこそ、此所迄も格之助を離さず、格之助は実に我親なりと思愛の情あればこそ此所まで離れず付添たり。(中略)是を以て察するに格之助の妻に平八郎が密通して弓太郎を産せたるを、世間へは矢張り格之助と称し置たる抔は決して無きことにて若し左様の事のあらんには、格之助の内心になどて挟まであるべき。かゝる無礼無儀の事を父子の間に心に挟みたらば、などてかく父子の情の厚かるべき。子細は更に無き事なり。
そして、これは『何かな師匠平八郎の事を悪敷申為さんと申たることにて、必竟は犬の逃吠と申すものなるべし。』と述べてゐる。幸田成友博士は、この咬菜秘記の説に同ぜられて、橋本忠兵衛も読書人で、且つ事理に明るかつた人であるから、これが事実とすれば依然として平八郎の許に出入し、娘をそのまゝにしておくことはあるまい、また格之助としても従順に父に仕へてゐる訳はなからう、と観られてゐる。*1
管理人註
*1 幸田成友『大塩平八郎』(1942) p243〜247。
坂本鉉之助「咬菜秘記」その4
石崎東国「大塩平八郎伝」その64
(異説日本史)「大塩平八郎」目次/その10/その12
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