Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.18

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その3

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

  三 如何にして挙兵の準備をしたか

 大塩平八郎に、挙兵の決心のついたのは、何時の頃であらうか。火薬の製造を始めたのが、前年の九月であるが、その他吟味書から考へても、この九月ごろ決心したのであらうか。同志の勧誘はその十月ごろから始め、翌八年二月まで続いたらしい。火薬や木砲は、門人有志に砲術を学ばせたが、やがて堺七堂ケ浜で丁打を試みるからと詐つて密かに作らせた。また百目砲を三挺ほど知人から言葉を巧みに借りて歩いた。大砲の車台も、石材を運搬するからと言つて作らせた。檄文は、横に五六字づゝ活字の駒のやうに彫らせて、感づかれぬやうにし、出来上ると、門人二名が夜中に秘かに摺上げた。

 彼が挙兵前二月上旬から施行を行つたことが、これも挙兵の準備と見られるので少し記しておく。彼には多数の蔵書があり其の大部分は門人の柴屋長太夫が家持であり、書籍代を五年の間金二百両銀十二貫六百目余貢いだもので買つた。この蔵書を全部売払つた。一万軒に金一朱づゝ施すから、六百二十両余 の金になつたのであらう。そして、安堂寺町の本屋会所で施行を始めた。凡そ多人数に米銭を施すには、まづ奉行所の許可を得なければならぬ。ところが平八郎は届出なかつたので、跡部山城守から一応詰問すると、隠居の身分であるから届出るにも及ぶまいと思つたとて謝つて来て、今一日で終るが此れで中 止しませうかと折返し伺出た。山城守は施与金の調達方も判明し、今一日で済むといふのであるからとて、黙許した。しかし、本屋会所での施行は終つたが、引続き挙兵の日まで、平八郎は天満の自邸で、または門人の手から施行し、その度毎に天満に火手が挙つたら馳せつけてくれよ、と伝へた。

 この施行の本意について、幸田博士は次のやうに考察されてゐる。一万人に金一朱づゝの施行は莫大な慈悲善根であるが、果して純粋な慈悲心から出たものかは疑はしい。もし之が挙兵の決心をする以前であるならば、もちろん彼の一大美挙として伝へたいが、不幸にして施行の実施された二月上旬は、挙兵の計画がすゝんで、まさに爆発せんとする時機であつた。かヽる場合に窮民に金銭を恵むのは、慈悲心の結果と見るよりは、むしろ人心収欖の目的に出でたと考へるのが至当であらう。かりに慈悲心からとすれば、またその賑恤の範囲も公平でなくてはならぬ。天保四五年の飢饉の際は、町会計や町村の庄屋年寄から窮民数を書上げさせて施行した。ところが、平八郎はこの平等な方法をとらず、門人に托して施行札を配つたから、恵まれた村々は門人の居村か、その近傍に止つてゐる。而も、施行金を渡すとき天満に火事あらば必ず大塩先生の許へ駈付けよ、と伝へた。かやうに賑恤の時、その範囲の不平等、天満駈付の伝言などから見ると、施行は人心収欖・人夫募集の方便からであらう、と。(大塩平八郎)*1

 賑恤をうけた村民は、市中の火手を仰いで、天満に駈付けるものもあり、赴かうとして途中で潰散したものもある。また平八郎が平素懐柔してゐた渡辺村の○○はちよつとした手違から暴動に加らず、また他村の○○も途中から逃げ帰つた。彼が有事の際に○○を使用しようとしたのは、大眼識であつた。これが加はると、二百余人に上らう。この社会的に経済的に圧迫され切つた荒々しい○○の参加がなかつたのは、何よりも大塩側にとつては遺憾なこことであつたらう。なほ邸内の溜池を埋ると称して雇入られた四十余人の人夫は、その当日平八郎に叱咤されて暴動に加つた。


管理人註
*1 幸田成友『大塩平八郎』(1942) p153〜155。


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その2その4

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