『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
四 挙兵
さて、挙兵の方略を斯う立てゝゐた。西町奉行が交替して、新に堀伊賀守が二月二日に着任した。新任の町奉行が来ると、同勤の町奉行と共に、三回にわたつて市中を巡見する例があつた。その第三回の巡見は天満組に当つてゐた。それで此の時は、天満組巡見は二月十九日に行ふことになつてゐて、着任の際の迎方与力朝岡方で休息する筈であつた。その朝岡の屋敷は平八郎の向側であつた。それで、休息する時刻申刻に、兵を起し、まづ向側の屋敷に休息中の両町奉行を大砲で討止め、続いて市中に放火しよう、また両奉行所附近に火を放つて、捕手の意気を挫かう、といふのであつた。その手筈もそれぞれ極めたが、謀も一簀にして、与党たる東組同心の返忠のために少しく齟齬し、すでに召補手筈のうちに、十九日早朝、『天照皇太神宮・湯武聖王并に東照大権現』と認めた籏二流、救民と大書した四半一本を押立て、大筒四挺を曳いて、大塩邸を進発した。時の平八郎の風采を天満水滸伝には次のやうに描いてゐる。
また、さる医者の手記 *1 に伝へられる陣列を記して見ると、
大井正一郎 庄司義左衛門 金助 | 木八 七助 | 柏岡伝七 白井孝右衛門 松本隣太夫 茨田郡次 上田孝次郎 杉山三平 阿部長助 深尾才次郎 曾我岩蔵 志村周次 高橋九右衛門 渡辺良左衛門 堀井儀三郎 近藤梶五郎 安田図書 橋本忠兵衛 西村利三郎 柏岡源右衛門 |
暴動勃発に際して、町奉行側は周章狼狽を極め、処置は応急を失した。殊に、跡部東町奉行の臆病と戦線での落馬は後世の笑草になつた。
一党の同志はよく戦ひ、鴻池その他の富豪の家に放火した。富豪でも日頃の態度によつて差別を加へたといふ。鴻池屋から千両箱を数十持出したともいはれるが、箱の重量から考へると伝説であらう。
徒党はよく戦つたが、数度の逆襲に逢ひ、衆寡敵せす、三回戦の後、夕方潰乱した。戦は一日で終つたが、市中の火は三日にわたつて消えなかつた。近国の約十藩の兵が動員された。
平八郎父子は八軒家より船に乗じて逃れ、油掛町の美吉屋の許に隠れた。遠くへ逃延びた同志も一二あつたといふが、或は戦死し、或は逮捕され、牢に入れられた者はすべて病死した。その他、施行に関係した書林など、その係はる罪以上の極刑をうけた。
返忠の者は、挙兵の三日前東町奉行へ密告した平山助次郎は、江戸に上つて幕府にも訴出た後、大名預けになつてゐるうち自殺した。吉見九郎右衛門は取高そのまヽ小普請入となつた。少年の河合八十四郎、吉見の子英太郎は賞金を貰つた。
かくして大塩の叛乱は時の人に深刻な印象を与ヘ、また平八郎逮捕までは人心恟々として流言頻りに飛んだ。