Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.19

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その4

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

  四 挙兵

 さて、挙兵の方略を斯う立てゝゐた。西町奉行が交替して、新に堀伊賀守が二月二日に着任した。新任の町奉行が来ると、同勤の町奉行と共に、三回にわたつて市中を巡見する例があつた。その第三回の巡見は天満組に当つてゐた。それで此の時は、天満組巡見は二月十九日に行ふことになつてゐて、着任の際の迎方与力朝岡方で休息する筈であつた。その朝岡の屋敷は平八郎の向側であつた。それで、休息する時刻申刻に、兵を起し、まづ向側の屋敷に休息中の両町奉行を大砲で討止め、続いて市中に放火しよう、また両奉行所附近に火を放つて、捕手の意気を挫かう、といふのであつた。その手筈もそれぞれ極めたが、謀も一簀にして、与党たる東組同心の返忠のために少しく齟齬し、すでに召補手筈のうちに、十九日早朝、『天照皇太神宮・湯武聖王并に東照大権現』と認めた籏二流、救民と大書した四半一本を押立て、大筒四挺を曳いて、大塩邸を進発した。時の平八郎の風采を天満水滸伝には次のやうに描いてゐる。

また、さる医者の手記 *1 に伝へられる陣列を記して見ると、

 
   大井正一郎
大塩格之助
  庄司義左衛門
        金助
       木八
大塩平八郎
       七助
柏岡伝七   白井孝右衛門
松本隣太夫  茨田郡次
上田孝次郎  杉山三平
阿部長助   深尾才次郎
曾我岩蔵   志村周次
高橋九右衛門 渡辺良左衛門
堀井儀三郎  近藤梶五郎
安田図書   橋本忠兵衛
西村利三郎  柏岡源右衛門
瀬田済之助
と。この外に、後陣に長持葛籠を担ふ人夫が続いた。この順序で、どこまで進み、二手に分れてから、 どういふ配列になつたか。それは不明である。混乱にまぎれて一党の打壊しに手伝つた群集は八百人を 数へたとか伝へられてゐる。

 暴動勃発に際して、町奉行側は周章狼狽を極め、処置は応急を失した。殊に、跡部東町奉行の臆病と戦線での落馬は後世の笑草になつた。

 一党の同志はよく戦ひ、鴻池その他の富豪の家に放火した。富豪でも日頃の態度によつて差別を加へたといふ。鴻池屋から千両箱を数十持出したともいはれるが、箱の重量から考へると伝説であらう。

 徒党はよく戦つたが、数度の逆襲に逢ひ、衆寡敵せす、三回戦の後、夕方潰乱した。戦は一日で終つたが、市中の火は三日にわたつて消えなかつた。近国の約十藩の兵が動員された。

 平八郎父子は八軒家より船に乗じて逃れ、油掛町の美吉屋の許に隠れた。遠くへ逃延びた同志も一二あつたといふが、或は戦死し、或は逮捕され、牢に入れられた者はすべて病死した。その他、施行に関係した書林など、その係はる罪以上の極刑をうけた。

 返忠の者は、挙兵の三日前東町奉行へ密告した平山助次郎は、江戸に上つて幕府にも訴出た後、大名預けになつてゐるうち自殺した。吉見九郎右衛門は取高そのまヽ小普請入となつた。少年の河合八十四郎、吉見の子英太郎は賞金を貰つた。

 かくして大塩の叛乱は時の人に深刻な印象を与ヘ、また平八郎逮捕までは人心恟々として流言頻りに飛んだ。


管理人註
*1 「浮世の有様」のことか。 同じものが、幸田成友『大塩平八郎』(1942) p183〜184 に 刀剣工「大慶直胤」の手紙として紹介されている中にある。。


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その3その5

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