Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.17

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その2

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

  二 挙兵の動機に関する伝説・真説

 大塩の乱の起きた動揺は、彼の配布した檄文によつて明瞭である。檄文は欝金色の加賀絹の袋に入れて上書には、

と認めてあり、裏に伊勢太神宮の御祓を結付け、檄文は西ノ内五枚続に印刷したもので、冒頭は、

から始まつて、次のやうな意味を述べてゐる。天保七年には大飢饉があり、餓死者少からず、市中の細民は米価騰貴のため窮乏の底に落ちた。天保八年正月には悪疫流行して大阪市中の死者は一日百人内外に及ぶ。さするに、彼等上役人は、これまで諸役年貢に苦められてゐる百姓に対して更に過分の用金を申渡す。それで下民の怨気は天に通じて、近年のやうな地震・火災・山崩・洪水となつた。これらは天より上役人を戒め給ふのであるが、一向に彼等は心付かず、なほ小人奸者の輩が大切なる政務に掌り、ただ下の者を悩ますこどばかり考へてゐる。我等は蔭ながら常々小前百姓の難儀を察して悲んでゐるが、湯武の勢・孔孟の徳をもたぬので空しく蟄居して如何とも致し難いと思つてゐた。ところが、この節は米価いや増しに高値となり、下民の難儀いよいよ積るのに、大阪町奉行を始め諸役人共の政道正しからす、江戸へは廻米をしながら、京都へはこれを差止める。その上、五升や一斗の米を小買しようと下阪する者を捕縛する。もともと当地の富商豪家は、大名へ全銀を貸付け、家老用人格となつて、利息の外に莫大な扶持をとり、また自分では田畑新田を多く所有してゐるにも拘らず、役人共は彼等を促して金銀米銭を施与せしめようとせぬ。亦豪商共も徒に堂島の米相場ぱかりを苛めてゐる。彼等は民の難渋してゐる時節にも、美服を飾り、酒食に飽き、女色に耽り、蔵屋敷の役人と共に揚屋茶屋で宴遊を擅にしてゐる。かくては、蟄居の我等も、もはや堪忍なり難い。湯武の勢・孔孟の徳はないけれど、拠ろなく天下のためと存じ、血族の禍をおこし、此の度有志のものど申合せ、下民を苦める諸役人を誅伐し、驕に長ずる金持の商人共を誅戮に及ばうとする。彼等が穴蔵へ貯へおく金銀、蔵屋敷へ隠しおく俵米はそれぞれ分散配当するから、摂河泉播の小前百姓や田畑を所持しても家内多勢で衣食に窮して難渋する者は、いつにても大阪市中に騒動起つたと聞けば、里数を厭はす、一刻も早く駈参ぜよ。 といふ一節で結んでゐる。平八郎は激し易い人で、非常な癇癪持ちであつた、米価暴騰、路傍には飢餓のために、行倒れになる人さへあるのに、町奉行の措置は当を失ひ、豪商共の義捐も遅々たるものである、一方に飢に泣く細民、一方に権勢に傲る役人、驕奢に長ずる富商がある、この当時のさまを見れば安坐するに堪へず、つひに兵を起したのである。その目的は、諸役人を誅し、富商を伐ち、その蓄へる金穀を散じて窮民を潤ほす、といふので、かくするのは天意に叶ふ所業であると信じたのである。

 彼の同志も、血気に逸つたのではなく、未来の恩賞を当てにしたのでもなく、一に彼と精神を同じうしたのである。それ故、瀬田済之助は足腰不自由な養父を見捨て、渡辺良左衛門は六十七歳の老母を見捨て、小泉淵次郎は花のやうな許嫁を、宮脇志摩は二男三女を、妊娠中の妻を、またまた孝右衛門は百姓兼質屋といふ不自由なき渡世を、忠兵衛は般若村(般若寺村)の庄屋の役を打捨てゝ、平八郎に同じた。裁許書には、彼等は大阪城を焼討にし、摂州甲山に退いて時機をうかゞつて大義を成就する企てがあつたと記してあるが、かヽる持久の計画は断じてなかつた。一に眼前の膺懲救民を主とした。同志の人員を見ても、主立つた者はわづか二十名を超えてをらぬ。(幸田博士)*1

 以上のやうに挙兵の原因は簡単明瞭であるが、幸田博士はその遠因として、東組与力同心の不平を挙げられてゐる。もともと大阪の町奉行は東西に分れてゐた。ところが東の方は、町奉行が頻繁に交代する。これは幕府に対して東町奉行の御覚が目出度くなかつたためであるが、その目出度くない原因は、西組与力同心の所為であらうといふ風説が東組にあつた。それから又、天保七年に跡部山城守が東町奉行になつたとき、跡部が与力同心の風儀がよろしくなく、勤向も未熟であるから、取調べの上外組与力同心へ組替を命じ、御用向は西組与力から助役するやうにしようなどと、西町奉行と内談したといふ風説があつた。また風説ばかりではないらしい節もあつたので東組与力同心は不平不快に思つてゐた。これに対して、その先輩であり、師匠格であつた平八郎は少からす同情をもち、同時に山城守の挙動に対して不快なる眼で見てゐた。このことが、挙兵の原因の一つであらうとされてゐる。

 こゝに暴動を起す直接の動機として伝へられる話に、平八郎が養子格之助の手を経て、救済策を山城守に進めたが、採用しないので立つた、といふのがある。即ち、平八郎は豪商富家に身代百貫目につき、一貫づつの割合で出銀させ、これで細民の難儀を救はうといふ仕法書を作り、格之助を使に立てヽ山城守に差出したが、採用する様も見えぬ。再三申立てたが承引しさうにない。強ひて格之助をして申立てたところ、山城守は平八郎乱心致したりやといつた。格之助は返す言葉もなく引退つて、養父平八郎に告げると、落涙数行、此の上は致方がないと言つた、といふ。

 今一つ、こんな伝へもある。平八郎は細民救済の資全の借入方を、鴻池屋以下の豪商に申込んだところ、いづれも一旦は承知したが、一応奉行所の許可を得るがよからうと、総代を出した。すると、山城守は、それは貸しても差支へない、しかし与力の隠居にすら斯かる大金を貸すならば、こののち江戸から御用全のことがあつた際には、一言半句も嫌やと言はさぬ、と言つたので、富豪共は驚いて平八郎との約束を反古にした。大塩一党が鴻池屋以下の大家を焼払つたのは、このためであるといふ。

 この二つの伝説に対して、幸田博士は次のやうに否定されてゐる。前者には『……与力の隠居が奉行より下問ありしにもあらざるに、再三自分の意見を申立つるは僣越に近く、左様なことは有さうでない』と言はれ、後者に対しては『仮に平八郎が金銭を申込んだのを事実としても、それを承諾するに町奉行の内意を伺ふとは聞取れぬ話で、第一(の話)にせよ、第二(の話)にせよ、平八郎が直接に救済策を立てたといふことは、一与力の隠居たる彼の身分から見て、不合理に思はれるのである。』と。考証到らざるなき真山青果氏の芝居には、救済策を立てたことになつてゐるが、これは戯曲化の立場からであらうか。(幸田博士『大塩平八郎』による)*2


管理人註
*1 幸田成友『大塩平八郎』(1942) p138〜139。幸田本では般若寺村。
*2 同 p142〜144。


檄文
石崎東国「大塩平八郎伝」その90
「浮世の有様 巻之六 大塩の乱」 その9


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その1その3

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