『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
二 挙兵の動機に関する伝説・真説
大塩の乱の起きた動揺は、彼の配布した檄文によつて明瞭である。檄文は欝金色の加賀絹の袋に入れて上書には、
と認めてあり、裏に伊勢太神宮の御祓を結付け、檄文は西ノ内五枚続に印刷したもので、冒頭は、
彼の同志も、血気に逸つたのではなく、未来の恩賞を当てにしたのでもなく、一に彼と精神を同じうしたのである。それ故、瀬田済之助は足腰不自由な養父を見捨て、渡辺良左衛門は六十七歳の老母を見捨て、小泉淵次郎は花のやうな許嫁を、宮脇志摩は二男三女を、妊娠中の妻を、またまた孝右衛門は百姓兼質屋といふ不自由なき渡世を、忠兵衛は般若村(般若寺村)の庄屋の役を打捨てゝ、平八郎に同じた。裁許書には、彼等は大阪城を焼討にし、摂州甲山に退いて時機をうかゞつて大義を成就する企てがあつたと記してあるが、かヽる持久の計画は断じてなかつた。一に眼前の膺懲救民を主とした。同志の人員を見ても、主立つた者はわづか二十名を超えてをらぬ。(幸田博士)*1
以上のやうに挙兵の原因は簡単明瞭であるが、幸田博士はその遠因として、東組与力同心の不平を挙げられてゐる。もともと大阪の町奉行は東西に分れてゐた。ところが東の方は、町奉行が頻繁に交代する。これは幕府に対して東町奉行の御覚が目出度くなかつたためであるが、その目出度くない原因は、西組与力同心の所為であらうといふ風説が東組にあつた。それから又、天保七年に跡部山城守が東町奉行になつたとき、跡部が与力同心の風儀がよろしくなく、勤向も未熟であるから、取調べの上外組与力同心へ組替を命じ、御用向は西組与力から助役するやうにしようなどと、西町奉行と内談したといふ風説があつた。また風説ばかりではないらしい節もあつたので東組与力同心は不平不快に思つてゐた。これに対して、その先輩であり、師匠格であつた平八郎は少からす同情をもち、同時に山城守の挙動に対して不快なる眼で見てゐた。このことが、挙兵の原因の一つであらうとされてゐる。
こゝに暴動を起す直接の動機として伝へられる話に、平八郎が養子格之助の手を経て、救済策を山城守に進めたが、採用しないので立つた、といふのがある。即ち、平八郎は豪商富家に身代百貫目につき、一貫づつの割合で出銀させ、これで細民の難儀を救はうといふ仕法書を作り、格之助を使に立てヽ山城守に差出したが、採用する様も見えぬ。再三申立てたが承引しさうにない。強ひて格之助をして申立てたところ、山城守は平八郎乱心致したりやといつた。格之助は返す言葉もなく引退つて、養父平八郎に告げると、落涙数行、此の上は致方がないと言つた、といふ。
今一つ、こんな伝へもある。平八郎は細民救済の資全の借入方を、鴻池屋以下の豪商に申込んだところ、いづれも一旦は承知したが、一応奉行所の許可を得るがよからうと、総代を出した。すると、山城守は、それは貸しても差支へない、しかし与力の隠居にすら斯かる大金を貸すならば、こののち江戸から御用全のことがあつた際には、一言半句も嫌やと言はさぬ、と言つたので、富豪共は驚いて平八郎との約束を反古にした。大塩一党が鴻池屋以下の大家を焼払つたのは、このためであるといふ。
この二つの伝説に対して、幸田博士は次のやうに否定されてゐる。前者には『……与力の隠居が奉行より下問ありしにもあらざるに、再三自分の意見を申立つるは僣越に近く、左様なことは有さうでない』と言はれ、後者に対しては『仮に平八郎が金銭を申込んだのを事実としても、それを承諾するに町奉行の内意を伺ふとは聞取れぬ話で、第一(の話)にせよ、第二(の話)にせよ、平八郎が直接に救済策を立てたといふことは、一与力の隠居たる彼の身分から見て、不合理に思はれるのである。』と。考証到らざるなき真山青果氏の芝居には、救済策を立てたことになつてゐるが、これは戯曲化の立場からであらうか。(幸田博士『大塩平八郎』による)*2