Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.24
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その7
『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
◇禁転載◇
二 欧州に落延びたといふ説
後年になると、薩摩に遁れた、十年戦争当時の県令大山綱良(通称格之助)は平八郎の養子の格之助であるといふ風聞を流すものさへあつた。中にも史論第二号(明治二十六年発刊)に奥並継といふ人が『大塩平八郎欧洲に失踪す』と題した文章を発表してゐるが、その中に秋篠昭足といふ蘭医がその女に語り遺したといふ物語によつて、次のやうな大塩平八郎の最期を伝へてゐる。
(前略)翁(秋篠昭足をさす。以下同じ。)の大塩と謀を通じ、事を挙げんとする期に先んじて、一味中大塩と同じ与力にて吉見新左衛門と云ふ者の反問ありたれば、已むを得す曝露して敗を取り、予て用意したりける大塩乳母の里河内国更砂形屋五郎左衛門の家に退き、一時土窖中に潜伏し、大塩父子及び翁は其他四人と海に航して、肥後国天草五陵村長岡氏(秋篠翁の妻の実家とあり。)に投ぜり。跡に残りたる十余人は該窖中に潜匿して世の動静を窺ひしに、彼の新左衛門、五郎左衛門の大塩家に由緒あるを知ることなれば、(中略)同心等を率ゐて更砂形屋へ寄来り、家中隈なく捜索すれども更に他の人影だに見えず、仍て同家を取毀しにかかりたる時、潜伏の者共、最早や是迄なりとて、窖中に備へありたる(中略)七門の大砲を一時発射せしゆゑ、即ち右、吉見新左衛門外七人討人せり。又た窖中の潜伏者も家屋とともに焼死せし由にて、鎮火の後、窖中焼死者は皆其相貌明かならず。中に就て、大塩家定紋付の脛当焼燼の中に在りけるに依て、大塩父子焼死すとて局を終れり。さて、天草にありては七名の者、縁に随て一時薩摩にも赴きたれども、久しく潜伏し難ければ、遂に清国福州地方へ渡航し、居歳余にして大塩父子は一名を従ひ、欧洲へ航せしより其行く所を知らず、翁及び四名は清国に居ること四年にして長崎に還れり。(秋篠翁は明治十年大阪にて病歿したとある)
井形正寿「秋篠昭足の追跡」
(異説日本史)「大塩平八郎」目次/その6/その8
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