Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.23

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その6

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

二 最期に関する異説

  一 平八郎父子、行衛不明

 元和落城後二百余年にして始めて大阪市民の胆を驚かせた剣戟も一日にして終つた。小規模の市街戦ではあつたが、満天下の人心を動かした。一与力の身分をもつて幕府に対する暴動を、大阪城下に起すなどと細民の飢に泣く叫びは耳にしても、誰が想像したらうか。

 暴動後の平八郎の評判は次から次に伝はり、当時の手紙を見ると、京都辺でも暴動後一ケ月ぐらゐは人気の静まる模様なし、とある。まして平八郎父子の行衛が不明であつたので、大阪市中の人気は、彼の死を聞くまでは、なかなか鎮静しなかつた。町奉行所でも市中を鎮静させるために、芝居や寄席に干渉して成るべく賑かにやらせ、また床屋などで事件の風聞を遠慮するやうに達した。

 大塩の行衛不明は、幕府にとつて大問題であつた。彼が生存してゐる以上、再挙を計るであらうと思つた。一般にも、彼の徒党は五百人で、外に一味の者が五百人ある、再挙の軍資金も富豪から押領してゐる、など様々の流言が飛んで、市民は戦々恟々たる有様であつた。

 平八郎父子の捜査は大和河内方面に最も力をそゝいだが、そのほか諸方津々浦々に向つて人相書を配布して捜した。この捜索には、かの江川太郎左衛門も携はり、彼は甲州が前年百姓一揆が蜂起したりして不穏の土地であるから、こゝに落延びてゐては大事であると、商人に変装して家来一名を伴つて、その地を捜つたといふ。平八郎と太郎左衛門といふ当時の二名物は生前は何等関係がなかつた。この捜索といふ問題で、連絡をつけられるのも面白い。

 平八郎は三十日以上隠れ終せて、三月二十六日大阪市中で捕手を迎へて自殺した。自害を伝へられても、真に平八郎が死んでしまつたか、或は死骸は別人ではないかといふ風説が高かつた。そして色々な臆説を生んだ。その年の十月二十九日附で崋山から江川太郎左衛門に送つた手紙の中に、房州間村の漁夫が大塩がアメリカ船に乗込んだと噂してゐると報じてゐる。この怪聞は、昌平黌の書生渡辺某から狩野といふ絵師へ、それから佐藤信淵へ、信淵から崋山へ達したのであつた。(崋山は、金忠輔がカリフオルニヤの王になつたといふ風聞を伝へた人である。金忠輔カリフオルニヤ王の話は、明治初年の雑誌にもまことしやかに記されてゐる。渡辺崋山の耳にはどうして斯かる風聞が這入つたかといふと、彼は外国事情の探聞に熱心であつたからであらうと思ふ。)


藤田東湖「浪華騒擾記事


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その5その7

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ