Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.25

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その8

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

  三 平八郎父子焚死始末

 右には何等の証拠を挙げてをらず、却て秋篠昭足の遺した書柬・手記の類に一言も大塩の乱について記したものが発見されなかつたと言つてゐる程で、大塩父子の欧洲失踪の説の信ずるに足らぬことは明かである。たゞ史論が当時に於て真面目な学究的な雑誌であり、奥並継といふのは編修官を勤めた人であるから、当時多少この迷信を世に伝播したらしい。しかし、大塩父子の最期については、当時の大阪城代土井大炊頭の家臣が大塩父子を逮捕に向つた時の覚書や、大阪町奉行の報告書に詳しく見えてゐる。左に、土井大炊頭家臣の覚書をところどころ摘録し、且つ仮名交り文に直して、大塩平八郎父子に関する珍説の妄を弁じておきたい。

 今日ならば警視庁へ腕利きの刑事八人が馳付け、それ\゛/変装して、地図を前に逮捕の打合せといふところで、大塩父子は赤色テロの犯人に当らう。右の岡野小右衛門といふのは土井家の撃剣の師範で、他の者の壮年に較べて独り五十歳を越してゐたので、年に不足はないから一命を捨てるも惜くはないとて強ひて懇望して、一番に進むことになり、残る七人はくじ引で順番を定めることに極つた。

 大塩父子の隠れ場所は、この覚書のほか大阪城代や両町奉行の上申書を見ても、市中の油掛町の美吉屋方隠居所であつたことは明かで、決して河内国などではなかつた。また捕手に向つたのも西奉行堀伊賀守の組与力の内山彦次郎といふ者であつた。いよいよ逮捕の打合もとゝのひ、これからスパイを放つて居宅へ踏込むことになる。しかし捕方の手筈は大分喰違ふことになつた。続いて抄しよう。………朴咄な筆致ではあるが、よく小説を読むの感興を起さしむるではないか。

 この覚書には、格之助自殺の模様を別に傍書して『実は格之助みれんを起し候を、平八郎殺し候やに推察仕り候、云々』とあり、また一書には『両人の死骸を引出せしに、格之助もやけたゞれたれども、胸元を刺通し、腰にも突き創あるを見れば、自殺にはあらずして、平八郎が手にかけしものならん』とある。

 ある書物には、大塩父子の死骸を検べたとき、懐中に往来の通り手形がある。どうして焼けなかつたらうと引出してみると、天龍寺から出した手形で、雷門とあるのは平八郎で、観永水とあるのは格之助であらう、とある。果して事実ならば、二人は姿を僧侶にやつして何処へか落延びようとしたのらしい。


森鴎外「大塩平八郎」その12


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その7その9

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