『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
三 平八郎父子焚死始末
右には何等の証拠を挙げてをらず、却て秋篠昭足の遺した書柬・手記の類に一言も大塩の乱について記したものが発見されなかつたと言つてゐる程で、大塩父子の欧洲失踪の説の信ずるに足らぬことは明かである。たゞ史論が当時に於て真面目な学究的な雑誌であり、奥並継といふのは編修官を勤めた人であるから、当時多少この迷信を世に伝播したらしい。しかし、大塩父子の最期については、当時の大阪城代土井大炊頭の家臣が大塩父子を逮捕に向つた時の覚書や、大阪町奉行の報告書に詳しく見えてゐる。左に、土井大炊頭家臣の覚書をところどころ摘録し、且つ仮名交り文に直して、大塩平八郎父子に関する珍説の妄を弁じておきたい。
夜四つ半時頃、岡野小右衛門・菊地鉄平・芹沢啓次郎・松高縫蔵・安立讃太郎・遠山勇之助・斎藤正五郎・菊地弥六、八人、追々御目付時田肇方へ呼出し之れあり、罷り越し候処、『大塩平八郎父子市中へ忍居り候趣相聞え候間、捕方仰付けられ、委細の儀は御中屋敷に於て達す可き』旨、申聞け候に付き、何れも引取り用意相調ヘ、野服或は着流し等着用仕り、追々御中屋御殿へ相詰め申し候。
時田肇儀は引纏ひ仰付けられ召捕へさせ罷り越し候趣申聞け候。程なく時田肇御中屋敷御殿へ相越し、平八郎父子居所其の外委細の様子認め之れあり候書付、一同に見させ、且つ『父子のものは相成るたけ生捕に致すべき御主意に付き、其旨相心得候』様申聞け候に付き、岡野小右衝門はじめ一同相談の上、半棒さし出だしくれ候様、肇へ申達し候処、程なく出来仕り銘々へ相渡し申し候。(取意し易きやうにと『』を附してみる)
今日ならば警視庁へ腕利きの刑事八人が馳付け、それ\゛/変装して、地図を前に逮捕の打合せといふところで、大塩父子は赤色テロの犯人に当らう。右の岡野小右衛門といふのは土井家の撃剣の師範で、他の者の壮年に較べて独り五十歳を越してゐたので、年に不足はないから一命を捨てるも惜くはないとて強ひて懇望して、一番に進むことになり、残る七人はくじ引で順番を定めることに極つた。
七つ半時過、鳥巣亥四郎罷り帰り、『本町五丁目会所まで只今相こしくれ候様彦次郎申聞け候』趣に付き、私ども九人、即刻右会所へ罷越し申候。
本町五町目会所に控へ罷在り候処、程なく同心一人罷りこし、『直ぐ様場所へ相越すべき由に候間、信濃町会所までまゐり候』申聞け、同心案内にて即刻罷り越し候処、彦次郎並に同心三人相詰め罷在り、彼両人(大塩父子のこと)とも剃髪いたし候趣申聞け候。
彦次郎より平八郎父子忍びをり候、美吉屋五郎兵衛居宅の略図を見せ、一覧仕り候処、土蔵内に忍びをる儀にてはなく、隠居所にて御座候よし。且又た彦次郎申聞け候は、『庭口より相越し候かたを追手と定め、裏辻へぬけ路ある方を搦手と取極め、総人数三手に引分かれ。追手より相越し候同心のうちより五郎兵衛妻へ申し含め、五郎兵衛儀かねて預けの身分に付き家財改として、只今役人罷り越し候間、しばらくの間裏辻より逃げさり候様、平八郎へ申し述べさせ、逃げ出で候はゞ、搦手に待ち合はせ候もの召捕へ申すべき手筈にいたし候ては如何あるべくや。存意も御座候はゞ申述べくれ侯』様申聞け候に付き、『鉄平存意には、五郎兵衛妻より右之趣申聞かせ候ては、召捕の儀と推察いたし自滅いたすべくもはかり難く、前後より直ちに仕掛け候ては如何』の旨、申述べ候処、『庭口並に住居とても殊の外手狭に之れあり、働き相成りがたき』旨彦次郎申聞け候間、何分場所見知り申さず候ゆゑ其意に相任せ申候。(中略)時田肇申聞け候は、『与力同心の方は聊か手剛き儀も之れあり候はゞ打殺し申すべき存意の旨申聞け候へども、銘々ども御主意をも蒙り罷在り候事ゆゑ、なにほど手ごはく候とも打果たし候存意之れなく、是非生捕りにいたし候心得にて相越すべく』と申聞け候。いづれも同意の趣、申答へ候。
大塩父子の隠れ場所は、この覚書のほか大阪城代や両町奉行の上申書を見ても、市中の油掛町の美吉屋方隠居所であつたことは明かで、決して河内国などではなかつた。また捕手に向つたのも西奉行堀伊賀守の組与力の内山彦次郎といふ者であつた。いよいよ逮捕の打合もとゝのひ、これからスパイを放つて居宅へ踏込むことになる。しかし捕方の手筈は大分喰違ふことになつた。続いて抄しよう。………朴咄な筆致ではあるが、よく小説を読むの感興を起さしむるではないか。
鉄平儀は入口を固めをり候処、家内上を下へと騒動仕り、家内子供下人等も立退き最中、彼のもの両人(平八郎父子)身構へいたし候儀にも之れあるべくや、夫れに付いて此の固めはづし候とて気遣ひあるまじくと存じ、小路次のかた縁ばたに佇み候処、言葉争ひ三箇度承り、際退も之れなきと、路次口同心のかたはらへ罷り越し、『踏込み申すべきや』と申聞け候処、同意の趣答へ候間、直ぐさま小路次をくゞり半棒にて正面の雨戸を打ちこはし候、右破れより火気燃え出だし候へども、勢にまかせ、頻りに打ちこはし申候。火薬を相用ひ候や、合薬のにほひ仕り候やう相覚え申候。
鉄平、小路次をくゞり候と、同心並に小右衛門・弥六・縫蔵一度に踏みこみ、同様、雨戸・障子を暫時打ち破り候処、平八郎儀は脇差をぬき、向ふの壁際にたゝずみ候へども、何分入口の火気強く、踏みこみ候儀も相成りがたく、棒にて火を払ひのけ候内に、平八郎脇差を以て咽喉を横に突立て、右脇差を投付け候処、弥六の頭の辺より襟袖のあたりをかすり通り、携へをり候半棒に当り、少し切込みつき申候。尤もあとにて見受け候処、頭・襟・手び等に血そゝぎ之れあり候。
格之助(平八郎の養子)儀は、最初自殺いたし候儀と相見え、正面障子のうちに人形(ひとかたち)いたし候ものに衣類体の品掛け之れあり、右わきに戸障子と相見え建て之れあり候。障子に持たせ立てかけ右の品に十分火移り罷在り候処、戸障子こと\゛/く打毀し候ゆゑ、持合ひ之れなく、庭へ落ち、何れも火気に堪へ兼ね、我さきにと小路次の外ヘ立退き、もはや両人自殺は慥かに見届け候儀に付き、消防第一に仕るべき趣誰れ発言と申す儀は相わからす候へども、裏表より手術をつくし消防仕り候。
この覚書には、格之助自殺の模様を別に傍書して『実は格之助みれんを起し候を、平八郎殺し候やに推察仕り候、云々』とあり、また一書には『両人の死骸を引出せしに、格之助もやけたゞれたれども、胸元を刺通し、腰にも突き創あるを見れば、自殺にはあらずして、平八郎が手にかけしものならん』とある。
扱て又、搦手の面々には追手の面々より少々先きに罷り出で、七人の人数二つに仕り、逃げ道を開き、両側へならび相待ち罷在り候処、『少々手間どれ候に付き、内の様子如何之れあるべきや』と讃太郎・勇之助・正五郎申合はせ、逃げ路より戸口まで、密かに罷り越し、相窺ひ候処、何か人声仕り候問、『も はや逃出し候儀に之れあるべく』と、又々三人とも立戻り、聊か相待ち罷在候うち、座敷にて鉄砲打ち候旨、頻りに呼はる声相聞え候間、又候三人のもの戸口まで罷り越し、すき間より見請け候処、火燃え上り、火気にて坊主頭ちら\/と相見え候に付き、『扨ては火をかけ自滅仕り候儀に之れあるべく』と、肇・啓次郎並に同心へも声をかけ、戸打ちこはしに掛り候処、兼て用意の儀にも之れあるや、殊のほか手堅く、漸く打破り立入り候処、もはや火気さかんに相成り、父子とも自殺の体に付き、甚だ残念に存じ、『せめて死骸にても取出し後日の証拠にも仕るべく』と、右三人申し合はせ、夫より消防相励み絶在候処、内山彦次郎罷り越し『もはや火気烈しく相成り候間、消防人足へ相任せくれ候』やう申聞け候へども、死骸手近に之れある事に付き、前文の所存勇之助より相答へ置き、先づ最初、死骸に十分水打ちかけ、夫よりおひ\/消しとめ候うち、消防人足も相集り、五つ時過に消し申候。右は混雑中の儀にも御座候間、闕漏仕り候廉も御座あるべく候へども、何れも相談の上、覚え罷在り候あらましを相記し申候。
ある書物には、大塩父子の死骸を検べたとき、懐中に往来の通り手形がある。どうして焼けなかつたらうと引出してみると、天龍寺から出した手形で、雷門とあるのは平八郎で、観永水とあるのは格之助であらう、とある。果して事実ならば、二人は姿を僧侶にやつして何処へか落延びようとしたのらしい。