Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.2.1
2003.9.23修正

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大塩の乱関係論文集目次


「革 命 時 代 の 古 制 札」

石崎東国 (1871?〜1931)

『陽明学 第7号』 陽明学会 1909.5 所収



予 頃日一骨董店を過り 店頭偶々二枚の古制札を発見し 多大の興味を以て購ひ帰る、即ち一は正徳元年 一は明和七年 共に幕府建る所に係る、正徳年間のものは 風雨多年入 木の跡磨滅するもの多く 殆んど読むべからず、漸く読み得たる所を以てするも 事件平凡一般人民の心得たり、明和年間のものに至つては 即然らず 木地暗黒なるも文字読むべく 事件亦頗る甚大の意を含めり 予の革命時代の古制札と称するもの 即ち是れ、其文左の如し。

之れに因て是を見れば明和の制札なるものは当時百姓の徒党、強訴、逃散等を警戒せんが為めに建てられたる所のものなり、幕府時代に於ける一揆徒党なるものは今日労働者のストライキ運動以上の騒動として之を警めたるはいふ迄もなし、而るを突如として斯くの如きの制札建てらるゝに至りたるは果して如何なる時代なりしかこは吾人社会問題に留意するものゝ好題目にして之を研究するは好奇心にのみあらず少なくも必要事に属せり。

新撰年表の示す所に依れば、明和年号は今より百五十年前徳川十代将軍の治世にして其七年は大旱魃なりしことを記さる、徳川十代家治は 即ち田沼主殿頭意次全盛時代なり、嗚呼田沼々々 予は茲に至つて 制札に対して殆んど恐怖戦慄することを禁ずること能はず、知るべし 田沼は徳川十五代の幕政中 酷吏伝中の頭目なり、而して彼の時、圧政暴虐の極怨嗟の声 朝野に充ち、革命の気 内外に動ける恐怖の時代なりしことを、

彼は 初め奸才を以て九代家重の時既に側衆に居つて政治を左右し、家治継ぐに及び これが執政となり、幼孩の主を擁して天下に臨み、遂に遠州相良五万七千石に封ぜられ、其子意知も亦 参政の要職を占め 父子権を弄する三十年、上は将軍を愚にして天下のことを知らしめず、下は苛政を布いて人民を圧し、中間の有司もまた諂諛曲従を務め賄賂公行して 綱紀全く壊頽せり、

田沼の言は 能く自らを説明せり 彼 常に曰く 金銀は人の生命にも易ふべき宝なり 此宝を納れてまで奉公せんと願ふものは 必ず上に忠なる人ならば 志の厚薄は 進物の多少によりて験すべし

彼は 実にかゝる暴戻なる標準に依つて政治を律しつゝありしなり、宜なる哉 此等暴政の下 気候も亦 其和順を失ひ 天災地変頻りに起れること、宝暦七年には関東大洪水あり 利根川溢れて溺死するもの四万人、安永には伊豆の大島噴火して石を降らすこと方一里有半、積むこと二尺に及ぶ、同時に 大隅の桜島も亦噴火し、熱砂を飛ばすこと霰の如く 海上に数十の小島を顕出するあり、而も 曾て将軍に知らしめず 四民の泰平を装ひ 自ら城府に傲居して驕奢放逸を極むるの結果は 府庫これが為めに空虚となり、時の勘定奉行は 之を補はんが為めに貨幣を改鋳して悪貨濫造となり。風雨の変災と悪貨濫造とに依りて 物価は日に騰貴し、酷吏の誅求と相俟つて 生民の滅亡旦夕にあり、松平定信当時の状況を述べて曰く、

当時の事情以て想見すべし、

今其の百姓一揆の重なる事実を挙ぐれば 是より先き寛延二年十二月奥州福島に一万八千の農民一揆あり、大挙して桑折陣屋を襲うて強訴す、代官即ち米沢、仙台、福島三藩に援を求めて之を鎮圧し、翌年三月頭領彦内を斬に処す、

翌三年には伊予大川の農民二万余人かずかずの聚歛に苦しみ 手に手に棍棒を提げて富豪の家を襲ふあり、

これと殆んど同時に讃岐丸亀に同様の一揆起る 其数一万余人

越えて宝暦四年八月美濃国上郡の農民蜂起あり、

其最も大なるものは明和元年十二月武蔵国秩父郡八幡山に蜂起せるものなり、此時に当て上野下野の百姓皆な徒党して先を争ふて雲集せるもの二十余万人、神流川の辺に屯集して 一斉に鬨を揚げ 竹槍蓆旗軍勢頗る奮ふ、宛然たる革命軍なり、翌年四月に至り僅かに鎮定に帰す、頭領の捕はれて獄に下るもの数百人といふ

是れより以後 農民の乱大小殆んど寧日なし、幕府 即ち之れに困しみ 是に於てか 明和の制札なるもの出で 之を津々浦々に掲示し、詮議愈々厳密を加へ、苟くも疑はしきものは羅織至らざることなし、

鬼哭啾々 真にそれ此時にあり、詩人あり詠史を賦して曰く、

而も一制札は天下の餓を救う糧にあらず、田沼なほ政局に立つ 苛政改まるに非ず、故に天明元年八月には 又々上野下野五十三ケ村の農民三千余人 一時に蜂起し 所在富豪の家を破壊せり、之れ新たに絹、糸棉に運上銀の課せられたるに依る、

而して 翌年には 東北早寒し、五穀登らず、所謂天明の大飢饉はこれより来れり、

其三年には 伏見奉行小堀政方の暴虐の為め 淀川沿岸の漁民四百余人 簑笠にて衛門に迫るあり 文珠九助之が総代たり 此の騒動は三年間に亘り 遂に漁民の勝利を得たるは喜ぶべし、

天明四年五年旱し 明春亦霖雨し 其七月豪雨八日八夜に連り、暴風屡々起り、天下大に饑ゆ、

是れより三都及び長崎、石巻、和歌山、郡山、銚子、小田原、伏見、堺、神奈川、熊本、姫路等百姓一揆なるもの頻々として天下に瀰漫す、

富豪或は代官を襲ひ 家を毀ち 財を取る、江戸八百八街 盗賊横行し、盤木を撃ち 鐘折を鳴らして相警戒す、当時江戸市中のみを以てするも 飢民の為めに毀たれし米商千八百軒と称せらる、

以上 天明時代の百姓一揆と窮身騒動とは かの飢饉より瀰漫せるものなりと雖も、是より先き彼が二十余年間の暴政は 今日に至つて 其極に達したるものにして 之に次ぐに大飢饉を以てす、

之を如何んぞ生民の耐ふるを得んや、而れども 要するに 窮民騒動は飢を救はんが為めの消極的反抗に過ぎず、誰れか之を救済せんが為めに 積極的に暴政府を打破し去らんとせしものはあらざりしか、即ち 此の恐怖時代に革命運動を計画したるものはあらざるか、否々王政復古の事業は此の間 頻々として計画せられたり。

大胆なる革命運動の張本人と目せられたるは 実に竹内式部なり、彼は早く王室の式微を悲み 幕府の暴戻を憤り、争でか之が恢復を為さんとするの時、恰かも桃園天皇の朝 関東に於ては近臣田沼父子の専恣に因り、徳川氏の政 漸く紊れ 天変地異頻りに起りて 百姓塗炭に困しむを見て 機熟せりと為し、京都に入り 縉紳公卿の間に游説し、公卿二十余人の同志と策を定め 大に為すあらんとして 一朝謀議洩れ、朝紳は厳譴を蒙り、式部は重追放に処せらる、実に宝暦八年の事なり、

次で革命運動を企てたるは 山縣大貳なり 亦王政復古に志あり、藤井右内と相謀り、之が策を講ず時に 竹内式部は追放中より諸州を周遊して 竊かに江戸に入り 大貳と相結び共に其志を為さんとす、事又発覚し、大貳は斬に、右内は梟に、式部は流に処せらる、
これ明和四年八月なりき、

大貳式部の事業 既に空ふして 此の後に頗る大規模の革命を画策したるものは 高山彦九郎なり、彼は天下を周遊して 志士仁人と結び、一面公卿縉紳の間に出入して 朝議を動かすが如き、其勢力最も盛なり、同志には唐崎常陸之助、富田大淵あり 天明の初めに当つて 皆な京都にあり、高山彦九郎が「今故紙を接して幟となし 山廟門外に樹て 号令せば即ち千人を得べし、豎子を誅するに於て 何かあらんと」号叫したるは 田沼の暴政を憤れるなりき、

然れども 天明四年の飢饉を見ては 俄かに革命旗を揚ぐるを屑とせず 一たび之れが救済の方法を講ぜん為めに 関東に帰るに至ると伝へらる、

斯くの如く 田沼時代は 飢に泣ける百姓一揆の消極的反抗の頻発せるのみならず、根本的に幕政を顛覆せんとせる革命家の積極的計画の 漸く表面に露出し来れる恐怖時代の絶頂に達したる時なるを知るべし、而も窮すれば通ず、

天明六年 此の暴悪政治家田沼意知は 佐野某の為め 城中に刺されて死し、家治 尋で薨ずるや 意次亦黜けられ、十一代将軍家斉立つに及び 白河楽翁入て局に当り、先づ田沼を誅戮して 天下に望むに及んで 四民 初めて蘇生の思ひあり、之を以て其八年 定信の上洛するや、沿道の人民 田沼の弊政を改めて善政を施くと聞き、行列を見る老人は路に跪き、多く涙を流して 塗炭の苦しみを救はれたるを喜べりといふ。

白河楽翁の出づるに及んで 幕政は多少改革せられたり、少なくも府中は 之れが為めに清潔にされたるは疑なし、勿論 彼は人民の幸福を増進すべく 民政に充分の力を致さんことを希望せしが如し、然れども 当時窮民の消極的反抗よりも 尚ほ多く王政恢復の積極的革命運動の勢力を恐れたりき、

故に 彼は尊号宣下の問題に於て 猛烈なる中山愛親を拘禁して以来、力めて朝廷を圧制し 同時に 苟くも革命運動を助成すべき学派を抑圧したり、即ち宋学以外に講ずることを許さず、陽明学の如きは 異学の最なるものとして排斥せられざるを得ざりき、斯る都合よき改革政治の成功すべき道理なし、されば 白河侯の退くや 百姓一揆依然として行はれ、改革運動は絶えず計画せられたり、

寛政六年正月には 奥州白川郡浅川領内の農民数千人蜂起し、大庄屋其他領内八十余家を破壊し、享和元年六月又山形、上の山、高畑の農民一揆起りて 地頭を襲ひたること、

天保元年十月に 越後新潟の農民蜂起して 土豪の家を毀ち、其七年八月 甲州都留郡八十余村の百姓甲府に迫るもの一万八九千人と称せらる、

天保八年は 実にこれ大阪に於ける大塩平八郎の旗揚げなり、大塩の乱は 百姓一揆と称する種類のものはあらずして 実に徳川幕府に対する堂々たる革命軍なりしなり、百姓一揆とすれば 大塩乱は徳川時代に於ける殆んど総殿にして革命運動としては徳川幕府に於ける、試金石として爆発せるものなり。

歴史の証するところ 即ち斯くの如し、之を要するに 徳川時代に於ける百姓一揆は 承応元年佐倉領の木内宗吾に依つて開かれてより 二百年間 大塩平八郎の革命騒動に至るまで 幾十百件 其尤も全国に瀰漫して猛烈を極めたるは実に田沼時にして 明和の制札は 実に此の間に掲示されたるものなり、

嗚呼是れ此の制札、真に革命時代の好殷鑑なり、制札の奥書に依れば 丹北郡東瓜破村とあり、即ち 今の河内国中河内郡瓜破村にして 路は大和大阪街道に建てられたるものなるを知る、謂ふ百五十年前 天下の士民斉しく望んで 憤慨の涙を呑めるもの果して何如ぞや、予は特に制札に対して 悽愴恐怖に次ぐに 悲憤の涙を禁ずる能はざるなり。


高札


参考
・横地祥原「石崎東国先生 −わが弱年の思い出− 」
(『大塩研究 第36号』1995.11 )

・「大正時代の洗心洞文庫」
(『大塩の乱関係資料を読む会会報 第19号』)
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