Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.12

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎と藤田東湖」

石崎東国 ( ? 〜1931)

『陽明学派の人物』 藍外堂書店 再版 1913 所収


適宜改行しています。

 幕末の昔大阪に大塩平八郎なる革命家があつたことを知つたのは、吾輩がなほ輔仁舎(故栗田博士の私塾にして当時小石川にありしもの栗田博士は藤田東湖先生の門人也)にあった時代で、そは藤田東湖の色々の著書を読んでのことである、即ち吾輩に大塩平八郎を紹介したのは藤田東湖であるといふことが出来る、否独り吾輩ばかりでなく今日大塩の面目、性格事業の一般を知る多くのものは恐らく東湖の紹介に因るものと信ずる、

然 らば大塩と東湖とは如何なる関係があつたかといへば、別に相識の中でも何でもない、併し時代は殆んど同じである、年は大塩が十二歳の年長者で即ち大塩の死んだ四十四の年には東湖は三十二歳で土地方改掛りをして居た時である、若し幸ひに会見の機会があつたならば思ふに美しい交際が成立されたに相違なからふが、此偉人傑士たる両雄は東西遂に未見の人に終つたのである

而し相見る見ざるは顔が丸いか四角かを知らなかつたといふだけで主義に於て事業に於て同一なる革命家には何等の間隔はない、果然大塩の事業は東湖に依って書き伝へられた、幕末革命家の面目東湖の筆を俟つて始めて躍如として描出されたのである、

第一に自分を知れる頼山陽を亡くした大塩は己の事業なり心術が斯くまで明白に伝へらるべしとは知らなかつたに相違ない、而も未知未見の人、況や京阪近郷の人でなくて東国の豪傑に依つて伝へらるベしとは、蓋し彼れのみならず一般に想像の及ばぬ所に相違なからふ、是れは我輩をして非常に興味を深からしめた原因で、而も吾輩が故国に於ての東湖の崇拝者であるが如く、偶々大阪に来つて茲に大塩の崇拝者と為つた逕行である。

 大塩中斎が陽明学者として中江藤樹先生の流を汲んだ人で理論家たるのみならず、実学実行家であることは、天満与力としての成績に見て明かなことで既に退隠されて後斯学の為めに全力を挙げて社会人道の開拓に任じ、遂には口で説てなほ足らず剣を手にして猛然と救民済世の旗を揚ぐるに至るまで陽明学家として旗幟の鮮明なることは中江、熊沢と併せて本邦斯学の三大家として許されて居るのは今日では最早茲に論弁する必要はなからふと思ふ。

 此れに対して東湖の学問はどうであつたかと云ふことは少しく茲に説明する必要がある、東湖の学問はいふまでもなく水戸学である、而も水戸学派を燦然と輝かした人物である、水戸学は源義公の建設され開拓されたもので、大日本史に備はるが如く大義名分を明かにすること、報本反始の義を明かにすることで幕末には簡約して尊王攘夷といふ題目と成つて天下の等しく唱名和賛するものとなつた、そして不思議にも之を援助したものは陽明先生と同郷余姚の人たりし朱舜水であるから面白い、

朱舜水は明かに陽明学とは名乗らなかつたが陽明の一派たるには相違ない 彼の文集中には明かにそれをいふて居る、明朝の滅亡と同時に亡命して革命のため日本の兵を借るべく計つたが事成らずして遂に帰化することヽ成つて、義公から賓師として招かれた 即ち水戸学の建設には義公を援けて尠からぬ功労のあつたもので 斯くて後世の弘道館記中には陽明の血の幾分が交つた者といひ得るのである、

水戸学を大成されたのは幽谷先生(東湖の父)である、先生は立原翆軒に学んで早く出藍の誉高く十八歳の時には正明論を白河楽翁に上つて学問の依る所を明にされたが、師の立原が詞章に沈溺せるに反し、幽谷は実学実行を標榜して学問は治国平天下を本とすべく論ぜられた人である、特に経済では支那の管仲、日本の熊沢とまで推称した程であるから熊沢蕃山の感化も尠なく無かつた様に思はれる、

斯る次第で爾来立原の文学派は多く保守的に傾き、藤田の経済学は進歩派となつて政冶上には少なからず軋轢を生ずるに至つたものであるが、幽谷の死後幸ひ我党には会沢、東湖の豪傑か出て 上には烈公あり実学派は多くの場合勝を制したもので 即ち幕末に東湖が革命派の中心として偉大なる勢力を得たのも之が為めである。斯くの如く東湖は革命派の頭領として烈公を奉じて外には諸公に応対し、内には庶政を改革した、東湖の施設として計書として重なるものは学校建設、均田法の実行、軍備の振粛、北海道の開拓策神武陵の建修案等、当時太平の余(世?)に於ける此等の改革、若しくは改革案なるものは其頃水戸家の野心、水戸藩の謀叛とまで流伝されたのを見ても如何に天下の耳目を聳動せしめたかヾ分る、又東湖が自ら信じて行ふときに野心家又謀叛人の名さへ辞せざりしに見るも如何に猛烈な革命家であつたかヾ分る次第で、是の辺の性格に於ても尠なからず東湖と大塩との間に相似たるもののあることヽ信じられる。

 藤田東湖が大塩の名を知るに至つたのは何時頃であつたか確とは分らぬが吾輩の知る所を以てすれば桑原毅卿(幾太郎)といふ門人の西遊からであらうと思ふ、即ち当時東湖の某氏に遣れる書状に「幾太郎西遊格別奇聞も無之、只大塩の事のみ専ら称道いたし居候委曲に承り候へば学問文章よりは一体人物の方傑れ候様に候」云々とある、思ふに其の頃であらふ これが天保八年二月初旬のことで其の後幾程もなく大塩挙兵の事あるに見れば、当時大塩の名声の関西に轟きつヽあつたことは勿論である、それから此の騒動後天保十二年九月頃東湖は友人川路聖謨を紹介として矢部駿州に交際を開始した、駿州は堺町奉行、大阪町奉行を経て勘定奉行と成つた当時経済家として能吏として名声天下に震つた人物である、大阪時代には長官として尤もよく大塩を知れる一人であつた、東湖は駿州との交際から大塩に就ての多くを聞くを得たのは此が為めである、その東湖のこれを聞くや、一言一句一挙一動も忽諸には聞かなかつた、

即ち後年隨筆に依つて伝へられたものがそれである、一旦天下から盗賊なり、叛逆なりとして貶譏された大塩の事件も、一たび東湖の耳を透ふして伝えられるに及んで光輝ある革命連動と成つて青年子弟の耳に入つたものである、曰く「平八郎は所謂肝癪の甚だしきものなり、与力を務むる内、豪商を折し小民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類天晴の吏といふべし、又学問も有用の学にて、なか\/黄吻書生の及ぶべきにあらず、言語容貌も決して尋常の人にあらずといひ、又平八郎叛逆人と雖ども駿河守の案には叛逆とは不存候といひ、又人心の靈愚夫愚婦までも今に平八郎様と称するは陰に其徳を仰ぐにあらずや云々、」

今日に於て吾々諸生の大塩の性格、面目なるものを今現に見るが如くなるものは実にこれあるが為めで吾々同人が深くも東湖に向つて感謝せざるべからざるところである、若し今日の大塩伝より東湖の記実にかヽる一段を引き去り見よ、残るところは臭骸の一あるのみではなからふか、斯かれば大塩たるものまた深くも百歳知己を得たるを喜んで居らるヽに相違なからふと思ふ。

 若しそれ当時の事情よりいへば大塩を弔伝すべきものは友人山陽の死後に於て唯々一の佐藤一斎老でなければならぬ筈である、一斎は大塩よりは二十二の年長者で而かも同学であるといふところから大塩の如きも多大の尊敬を払つたものである、而も一言も此人の口から伝はらないで却て未見予想外の人に依つて素ツぱ抜かれたといふは同学の名を辱めるものといはねばならぬ併し仔細に彼の心術を考ふるときは、それは無理もない、大塩が洗心洞箚記の刻成れる時遙かに書を寄せて一斎老の批評を求めたのに対し、一斎の返事はかうである「拙も姚学を好み候様被仰越候処何も実得の事無之赦羞に堪へず候姚江の書元より読候へ共只自己の箴乏に致し候のみにて都ての教授は並の宋説計に候殊に林家、家学も有之候へば其碍にも相成人之疑惑を生じ候事故余り別説も唱不申候事に候」と如何に一斎が世を憚かれるかヾ分る、

だから一斎は当時鵺学問と称せられて心あるものヽ指弾を免がれなかつた、其面を未子にし其胴を陽明にして甘く世を渡らふとする悪くいへば曲学呵世の儒者が大塩の心術を解し得らるべき道理がない、斯る人であるから後には林家を援けて水戸学派の迫害を試み遂に東湖などを陥れるに至つたのである。

 之れに反して矢部となると大分人物が違ふ、矢部は東湖から不文、不武と評せられた所謂何等文武の薀奥を極めた人ではない 而も其心術、見識の高いこと、大塩を見て早くも其人物を洞見し其意見を徴して偉大なる成績を挙げたものである、後に跡部が大阪奉行たる心得に就て矢部を訪問した時も其事をいはれた程であるが不心得な跡部は遂に悟ることが出来なかつたのは学問抜きの一斎老といつた底の人物であつたからだ、

大塩も己を知るものは学問以外高井山城、矢部駿州の二人として深くも矢部には信頼したものだ、そして又不思議にも此の矢部を知れるものは東湖であつたのである、後年矢部が罪を待(得?)て駿河の配所に食を絶つて死んだと聞いた時、悲憤慷慨古風を賦して哀悼止むことを知らなかつたのは東湖である、それから更に其子の復祿されたと聞いたとき、詩を作つて狂喜、雀躍したのも東湖である、既に矢部を陥れた鳥井(居)甲斐(林と一斎とは此の人の爪牙である)の手に依つて東湖もまたお国改革の為に幽閉されたのである、が併東湖は幸ひに死なヽいで矢部と大塩が吊ふたのであつた、

是れに因て見ると誠心ある革命者の事業は天は何にかに依って冥助を加へつヽあることが分る、要するに大塩は矢部といふ見識家に知られ、矢部もまた東湖といふ英傑に知られて居た結果、大塩矢部の相知と矢部東湖の相識が茲に東湖をして大塩を知らしめ訳である、此三大人格は学問、事業、こそ異つて居つたにせよ人道の上に革命的精神の上に能く交渉されたのであることは今日より見ても明かなことである。

 終りに臨んで吾輩は大塩が人道の為めに革命の為めに建てられた叛旗なるものに就て大塩を称するを憚る臆病者を喝破せざるを得ない、

今日に於ても或るものは大塩の学問人物には感じながらも謀叛人であると云ふやうな腐儒者の遠吠に恐れて陽はに学風を唱道するを憚るものもある位だから此当時に於ては平生多少の知己を以て許して居た交友さへ極力大塩を悪罵して其交遊であつたことを否認しやうと力めたものである、

これは広瀬旭窓なんどの遠吠に怯気付いた臆病者であることはいふまでもない、畢竟するに腐儒者どもに活学問がどんなもんか訳らないからで、革命者の心は矢張革命家独り之れを知ることが出来るのである、

東湖が彼を伝へることをしたのは東湖が革命の皷吹者たり又実行者であつたからで、それだけ東湖は謀叛などいふ腐儒者の遠吠を何とも思つて居らなかつたのである、世を挙げて姑息倫安に夢現で居る世の中に水戸家の改革は実に幕府に取つては或る意味からの謀叛である如く世間からは謀叛といはれたのも事実である、現に西城炎上の際には藤堂家の文学塩田随斎といふ臆病者などは「必定水戸殿御謀叛と覚えたり各々速かに御用意あるベし」などヽ家中を振れ廻つたといふ滑稽談さへある、

又山内容堂公が東湖を藩邸に招待した時「今日の時勢に予の如き如何にしても千古の大業を建つべきか」との問に対し一言の下に「さればなり御謀叛こそ然るべし」と答へたといふこともある、竹越三叉が所謂彼は日本の歴史あって以来最大煽揚家の一人であるといふたのも、これ等を指したのであらう、

要するに東湖は人道の為めに革命の為めには幕府に対する謀叛の如きは屁の如く思はれたに相違ない、だから大塩の改革運動の如き肝癖玉の破裂と見做したのは実際である、而も肝癖玉なる社会改革の点火が何の位世に響けるかを試験し得たとき東湖の喜びはどうしても之を伝へずには居られなかつたのであらうと信ずる。


川崎紫山「矢部駿州」その9
石崎東国


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