Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2002.12.17

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

−太平天国の建設者大塩格之助−

その3

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収

適宜改行、読点を加えています。


△茲に問題となるのは大塩先生父子の投じた清商と称する氏の一行で、某とは何人であつたか、吾等が曾て読んだ雑書中に、是は大蔵永常の著と記臆するが「崎陽記」の内に斯ういふことがあつた。

 「此頃長崎に来遊せる広東人に周秀才号は雲山といふものがあつた、蘭法医術に通じて兼て易学に精しい、此の人に遭ふて予は大に益を得たので、若し日本に永住の見込みならば然るべき諸侯にも推薦しやうと云つたが雲山実は去る年地会といふものに組みし、地方伝道中捕はれて死すべかりしを遁れて商人に装い、書籍を積んで日本に斯くは久しく亡命し居れるなりとぞ」

当時吾等は何等の注意を払ふことなく読過ごしたのであつたが、今にして思ふ、果然大塩氏邂逅の即ち此の周雲山であつたことが認定されるのである、斯くて明朝亡命僧に依て立てられた宗福寺に於て、周雲山大塩父子の一行は談合つた、共に是れ亡命客たるの境遇は同病相憐れむの情に於て爾来交際愈密となるに従て支那行は計画されたものである、而も是れ悠々たる漫遊の行か、将た風雲再挙の計画が寺僧知らず舟人また之を知るものは無かつたであらう、

△併しながら是れ必しも偶然ではない、大蔵永当(常)大塩先生の友人で、大塩渡辺崋山に紹介して無人島開拓事業に推薦した人であれば、大蔵の交た支那人周雲山は既に交際の間柄であることも推測さるヽ道理である、果して吾等の此考証が無理でないとするならば、周雲山の人物も想像されると同時に、天地会に就ては極めて面自(白)きものがある、天地会とは何であるか、宣帝の道光年中に福建から両広地方に唱ひられた新宗教の一種で、初は道教を主としたものであるが、漸く耶蘇教を混同して従来の道教よりは一寸進歩した一新宗教の如くし、病者には蘭法医術を応用し、卜易を活用して予言を為せる如きもので、極めて地方の信者を得、盛に布致伝道を試みて楚粤間に一勢力を扶植した、敢て掠略を逞ふする如きものではなかつたが、伝道の猛烈なるより一部の非難攻撃も少くはなかつた、是が道光十一年湖南方面の族部落に侵入して、伝道中掠略の嫌疑を以て部落と大衝突を起してから官の討伐に会ひ、何等武備を有しない天地会は遂に剿討されて了つたのであつた、其後同地方には尚ほ天地教を奉じて居るものもあつたが、官の圧迫に抗することが出来なく、主なるものは斬られ、他は四方に散乱した、周雲山は此の中の頭目を以て日本に亡命したものである。

△此の楚粤即ち南清地方に於ける宗教的騒動乃至叛乱といふものは、天地会が初めてのことではない、斯くの如きものは、国政の漸く衰ゆるのと社会の進歩に連れて四方に蜂起した、これは恰も乾隆の末年、日本では寛政の中年からのことで、大平洋の桃源国が黒船の影に初めて驚かされた時代からである、即ち千七百九十三年(支那の乾隆五十八年我が寛政五年)安徽の人劉之恊といふものが教主となつて四川、陜西湖北の間に白蓮会といふものを起して不靖を謀つたといふのが、先づ清末教匪の初めといつてもよい、されば彼等は教匪としては容易に剿討し得たのであつたが、丁度此の時、川湖、粤貴の地方は前に苗族の軍に困んだ後、私塩私鑄を禁ぜられた処から、地方民の生業を失ふものが多く、人々乱を思ふの折柄とて、教匪の煽動に乗じて河南、陝西、四川、甘粛の間に蔓延した、此の乱も可なり猖獗を極めたのであるが、統一のない為めに早く片付いた、併し五六年はか(かヽ?)つたであう。

△白蓮会に次で起きたものは天理教匪である、天理教匪の乱は嘉慶十八年(我が文化十年)で、河南の季文成、直隷の林清等其党又数万、一時頗る猛烈を極めたものだ、此の乱は宗教を仮りたものだが、実は京師にも内応するものがあつて、明朝回復を標榜したものであつたから、京都でも一時は非常に騒動した、ケレども今日と成ては明朝回復などは甚だ時代後れの観があつて、寧ろ白蓮教法の宗教より出たものが時代受けがすることを明かにした訳である。

△天理教匪に次で起つたものが天地会匪である(乾隆中台湾人林夾文が起せる天地会とは別物である、林夾文の子は琉球に竃入して日本人の為めに逐はれ天地会は倒れた、併し意外の大騒動で有名であるか ら是れと混合してはならぬ)此の天地会の教匪は道光十一年即ち我が天保二年の頃で前言つた通り周雲山の関係したのはこれであつた。

△白蓮、天理、天地の諸教匪、一匪散すれは一匪起り、一難平げば一難相次で起る、斯る禍乱は政治の廃替から来る生活難と、社会の進歩に伴ふ思想の変化に依て来る宗教的綜合運動であるから、如何にしても根絶すべきやうは無いのである、我が大塩先生父子の亡命され、漫遊された当時の支那はこれである、而して此の間に鴉片戦争は戦はれた、地方生業は益々衰頽一方である、生活は益々困難である、之を見た大塩先生、常に支那板の経書に依て王道を説かれて居た先生が、其の本国、古聖賢を産まれた其国の此の状態を見て何と感じられたであらう、経書は実に千古の聖伝である、而も斯くの如き廃替の国に経書を講ずべき余地は全く見出されぬ、先づ之に王道を鼓吹するには時代を一変させなければ駄目である、これは大塩先生にして初めて知るべきではない、誰れでも感じられる処である、斯の道は蠻貊に行くとも換らない、道は換らないが、変るものは時代である、されば変り行く時代に応じて道を説かねば、大道の行はれやうがない、況や自由にして独立主義なる陽明学者として、若し知行合一の大義に出るとすれば、時代は自ら先生の身を駆つて此の不可思議なる社会の中に投じたであろうと思はれる、而して太平天国の建設は鵜片戦争の十年目であつた。


石崎東国


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