Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2002.12.10

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

−太平天国の建設者大塩格之助−

その2

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収

適宜改行、読点を加えています。


大塩事件は愈迷宮に入つた、斯うなると大阪奉行所は幕府に対して殆んど無能の全部を曝露した計り か、市中は言ふに及ばず近郷近在に至るまで、風声鶏涙根もなきことに、或は甲山に再挙せりとや、天満に襲来せりなど、国民は生業にも安んぜず、市中の如き丸で無政府同様の有様で、大塩事件は永引けば永引くだけ奉行所の威信に関する場合となりし際、恰かも大塩家出入の紺屋阿波座の五郎兵衛方に怪きものヽ逗留せるといふを幸ひ、有無を言さず大塩父子と断定し、早速之を捕拿するといふ名の下に隠居所を焼き、中にありし天龍寺の旅僧雷門、永観の二人を焼殺し、大塩父子は全く是れなりとし、焼けがらを磔け引き廻しの上、捨札を出して此の事件を片付けたのであつたが、之を信ずるものは一人も無く、大塩は必ず生て居るものと一般に信ぜられて居た、従つて亜米利加船に乗込だともいヘ、又小笠原島に渡つたとも噂は消なかつたのであるが、此の間大塩先生は肥前天草に逃れ、それから長崎に出て遂に商船に搭じて支那へは亡命されたのである。

△是れは既に『大塩平八郎欧羅巴落の話」の中にも引用した秋篠翁の墓碑に出て居ることで、即ち大坂城東龍淵寺に二十三年十月一基の碑が立てられた、秋篠昭足の碑で、是れには明かにかう書てある。*1

といふのである、是は秋篠翁の女婿奥並継菱地と号す)の書たもので氏は帆足万里の門人で宇佐の祠官から身を起して四方に官遊した有名の人物であるのだ。

△此の碑文から見ると清国から欧羅巴に渡つたやうだが、或人がの未亡人(即ち秋篠の季女明治三十年頃まで生存した)を訪問しての聞書には斯うである、

△即ち大塩先生の欧罹巴行きは、是れは一時評判に成つたのであるけれども、実は欧洲ヘは行かないで支那内地に踏止まつたのである、黄檗山といへば誰れも知る通り福建省福州にある、禅寺である、長崎の崇福寺といふのが又寛永六年(西暦千六百二十九年)に黄檗宗超然が支那から渡来して開いた寺である、即ち明朝の覆滅より日本に亡命して来たもので、今徳川幕府の革命者たる大塩平八郎父子が此の寺僧の橋渡しで支那に亡命するに至つたといふのも何にかの因縁といふものであらう、大塩先生挙兵当時の詩といふものが二首あつて其中一首だけが儒林談叢といふものに伝へられて居る、是れは挙兵当時とするのは過りで亡命渡清の際のものである、

如何に世人は是れを読むであらう大塩先生の支那亡命は此の一詩を以ても承認しなければならぬではないか。

△支那に長髪賊の起きたのは大塩革命から十四年目のことであるが、此の頃の支那は実に内患外患もはや誰が目にも清国の末路は殆んど我が幕府の末路と同時に来た感に耐へないものであつた、即ち英国の阿片輸入事件から、欽差大臣林則徐が広東に臨んでからは断然之が売買を禁止したばかりでなく、阿片四万斤を焚棄てたから英国は遂に広東砲撃を開始した、次に舟山島を取り寧波を攻む、支那が之に応戦したのは言ふまでもなく、遂に有名な鴉片戦争となつた、ソコデ英国は艦隊を白河に集めて北京を威嚇する、宣宗帝は熱河に蒙塵する等容易ならぬ時局を現出して支那は遂に屈服し、償金を支払ひたる上、道光二三年我が天保十三年、南京条約で広東、廈門、寧波、福州、上海の五港を開き、香港を英国に与えて局を結だのであつた、此の頃まで黄檗山中徐かに時局を観望して居た大塩父子が、今同志の帰国を福州埠頭に送つたとき、欧洲行きを独語したことが、欧洲行きの評判に成つたものであらう、是れが福州開港当時のことであるから面白い計画には相違なかつた、併し此の頃の支那の事変に見た大塩先生の胸中の感、果してどうあつたか、大塩先生父子が断じて帰国の意無しと称せられたに見て、是より飄然黄檗山に姿を消して支那漫遊の途に就た、といふことは最早言ふまでもないことであらう。


管理人註
*1 これは『菱地遺稿』掲載のものと同じか、実際の碑文は少し違う。


井形正寿「秋篠昭足の追跡
石崎東国


「大塩平八郎」目次/その1/その3

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