Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


「琵琶歌大塩後素伝」

その3

石崎東国 1913

『陽明学派の人物』藍外堂書店 所収

◇禁転載◇

二 段 (1)管理人註
   

偖ても其後平八は、心にかくと決せしかば、伊勢の大廟、富士浅間、日 頃信ずる中山の、観音大菩薩も私ならぬ赤心を、共に照覧ましませと、 平八一代の心肝を、瀝きたる洗心洞剳記をば、何れも袖庫、石堂に納め ける、明くれば天保八年、続ける飢饉も今は其極に達し、米穀愈々乏し くなりまさるが、上に悪疫さへも加はりて、窮民皆な死に瀕し、天に愬 ふ飢の声、地に哭する死の叫び、此世からなる阿鼻叫喚、地獄の果ても 争で、これには比ぶべき、平八、今は堪へ得ず、数多所蔵の珍書をも、 一巻残らず売り、代し得たるは茲に一万金、これさへ一万余人が一日の 餓を救ふに足るものを、あはれ残忍酷虐の幕吏かな、富限の罪も逃るま じ、平八のみか今ははや、城中幾万の血潮は、一時に湧き返り、事あれ かしと待つからに、殺気は天に冲したり、当朝には平将門、明智光秀、 漢土の劉裕、朱全忠が建てし謀反の旗なれど、天下を挙て鉄火の巷とせ んことの、流石心に忍び得ず、事挙げかねし平八も、今はこれまでの世 なりけり、イデ救民済生の旗揚げせんと、洗心洞三千の健児を集め、獅 子吼一番、人事天命を説き、肺肝を傾くれば、何れ劣らぬ血気の少年、 義を見て勇む増荒夫の、心は同じ諸共に、醜の醜草刈り払はで、何れの 日にかは天日を拝すべきと、勇む健児等を、平八、静に推し鎮め、四月 十日を以て其期とこそは定ける、扨も摂河泉播の国々には、奉天命 天罰候旨、檄を移されける程に、志ある人々は、浪華の狼煙、今や遅し と待たりけり、さてもさる程に、運拙くして二月一八日、陰謀一旦に露 顕に及びければ、スワコソ猶予あるべからずと、昼夜俄かに軍備を整へ て、出陣とこそはなりにけり、時しも二月十九日、夜はまだ明けず、残 月は天王寺畔にうらかすみ、天満橋場の川霧も、何時かは消ゆる人の身 の、終り定めぬ浮つ世の、仁を求めて仁を得る、西山の隠遁、博浪の鉄 槌、何れ愚かはあらぬなり。











愬(うった)ふ











劉裕
南朝の宋の
初代皇帝、
高祖

朱全忠
五代後梁の
初代皇帝、
後梁の太祖

増荒夫
(ますらお)

醜草
(しこぐさ)
悪い草、雑草


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