Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2003.1.28

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎

−太平天国の建設者大塩格之助−」

その7

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収


適宜改行、読点を加えています。

△斯くて知府の一隊を逆襲した群集は、茲に顧元凱を追返し、韋昌輝を獄より救つて凱旋したが、格之助洪秀全等四十兄弟は、茲に金田村に会して、是れが善後策を講じた、而も此の儘に居れば、官兵の為に捕へられて、無名の死を取らねばならぬ、若し之より脱せんか、賊と呼ばれねばならぬ、寧ろ進んで天下の窮民 を救ふに若かずとは一般の議論で、遂に茲を根拠として、天下に殉ふるに決した、これが道光三十年六月初めの第一挙であつた、

是れを聞て馳せ参まるもの、貴県鳳祥に掲揚の羅大綱、衝山の洪大全等、衆を率ゐて之れに従つた、既に一方の将として精悍にして智略ある揚秀清があり、驍勇にして胆力ある韋昌輝があり、其他泰日綱、何震川の如く才略一世の傑物であるが上に、林鳳祥、羅大綱、洪大全等の人物を得たのであるから、楚粤の英雄を網羅したものといつてもよい、之を率ゐるものが洪秀全大塩士行(憑)雲山周秀才で、宛然大阪騒動を茲に再挙せしめたやうなものである、之を聞いた広州花県の郎山に隠居せる大塩後素は、定めて莞爾と得意の笑を浮かべたであらう。

△既に義を天下に唱ふるに及んだ格之助洪秀全は、数千の兵力を備へ、隊伍を整へ、兵器亦備つたから、是より官府の倉廩を掠略して糧食を足らし、窮民に分ち曾て民家を侵すことなく、又婦女を犯すことを禁じたから、従来の流賊の如き憂は地方に絶て無い、従て百姓は恩威に服して、勢力日に張るの勢である、

之を以て地方官憲から北京への警報は、櫛の歯を引くやうである、此の年九月、宣宗帝は崩御される、文宗顕皇帝が立つ朝廷は大混乱である、此の時雲貴総眼林則徐は病を引て家にあつたが、之れに詔して欽差大臣と為し、強て起して広西に赴かした、処が生憎潮州まで出て薨去された、是に於て、もはや我軍は虎を野に放つた勢である、四十使徒の長髪は一軍の標章と成て、今や全軍長髪ならぬはなきに至つた、因て髪賊の名は、朝廷を震撼せしむるに至つた。

△処で長髪賊の名は、四十兄弟の長髪から出たものであるが、是れは支那にはない風俗である、当時支那は言ふまでもなく満洲政府で、厳重に弁髪を励行したから、長髪は支那の当時には慥かに新らしい注意を引たに相違ない、所が此の長髪が又日本風俗の一であつた、日本も勿論一般は例の髻髪ではあつたが、此の長髪は山伏修験者に行はれ、又処士浪人にも行はれて居て、又是れが一部の風俗として認められた、大阪乱当時の大塩は此の風俗に近い総髪であつたが、是が亡命以来長髪の一新風俗を支那に開いたのである、三人が郎山の上帝会を訪問した時が、既に長髪であつたといふのだから、必ずしも西洋人を習てのものとは異う、それから茲に別に粤匪の名を取たことに就て説明をする。

△広東には禹貢に揚州の地で、春秋には南越と称した地方、広西は禹貢に荊州の域、古へ百粤の地で、両広通して楚粤の地方といはれて居る、清朝には公広総督を広東、広州府城に置き、広面桂林に広西巡撫といふものを置いたのである、粤匪の名は百粤の外方から出たのであるが、百粤の地を貫流する大河を粤江と云つて、粤江は支那南部の一大江で、貫流数省に亘り、其の面積約二万五千里に及んで、漕運の便利と物産の繁殖は、之れに依るのである、故に支那の諺に南船北馬とは此等から出たものである、粤江は四大流の総名である、貴州に発する北盤江を本流として、之を西江といひ、雲南に発する南盤江、之れに次で、之を江南と称し、江西省から出るものを東江と云て、相合して広東港に落ちる、広東下流が即ち珠江である、西江の上流が古の所謂江で、其中流潯州に至て潯陽江と為る、之れに北江が合するのであるから大変なものだ、此を以て見ても道光二十七年より三十年に至る飢饉、洪水、流疫の惨状も想像されることである、即ち此の流域に嘯聚蜂起したといふので、粤匪とは称したのである。


「大塩平八郎」目次/その6/その8

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