その8
石崎東国
『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収
△斯くて格之助の洪秀全の軍は、広西巡撫を迫て潯陽城を取り、之に拠て各方面出征の部署が定まると共に、一篇の宣言書を発表した、或は北京の征討将軍欽差大臣林則徐の歓降書に答へたもので、林総督は此の書を得て俄かに重体に陥り、遂に死んだのだとも言はれるが、兎に角挙兵の理由を宣言したものである、其の書に曰く、
満洲人は、二百年間支那の王位を世襲し居れりとも、彼等は異国蛮族の末裔也、彼等は戦争に馴れたる強軍を率ゐて、吾等の財宝、土地、政府を奪略したるものなり、従来吾等の村方に於ては、柔順に税金を上納しつゝあり、而して北京よりの官吏は、苛酷に之を取上げ居れり、
されば吾等人民に、何等の過失罪悪あることなし、然るに何の原因なく、又何の理由なしに、彼等は、吾等人民に向つて軍隊を派遣し、良民を圧制殺戮せるは何故ぞ、斯くの如き処置は、甚だしき暴戻無道なるものと謂はざるべからず。
鳴呼満洲人は異域蛮族にあらずや、異域蛮族にして、地方人民の税金を徴すべき権利曾てあることなし、仮令仮に王位を有するとも、人民を圧制する官吏を任命することはあるべからざる也。
吾等謂ふに、支那人は曾て満洲人を上に載かざるべからざるを誓ひたることなし、万世一系の主権は、彼の夢想にも有すべからざる所なり、支配の権利は、所有者の約束に因て成立す、纂奪政府に求むる所のものは、支配権の放棄にあリ、之を為さんが為めに、吾等は強力なる団結を要す
先づ斯ういふ意味である、支那には何等の文書が残て居らぬので、西洋人の聞書きに依るのだから、満足な意味は取れないが、此の宣言は、満清政府顛覆の革命宣言で、未だ太平天国建設前一般の宣言と見て然るべきであることは勿論だ。
△此の宣言書を読むと、吾等は、大塩の檄文に比して、多大の興味を感ぜざるを得ない、茲に大塩檄文の一部を抄録して比較せば、其の変化を見られるであらう、
四海困窮せば、天禄長く絶へん、小人に国家を治めしめば、災害並に至る、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たるものを御誡の置かれ候、云々、
然るに此の二百五十年太平の間に、追々上たる者驕奢を極め、大切之政事に関り候、諸役人賄貨を公に授受致し、一人一家を肥し候工夫のみに心を運し、其領分知行所の民百姓どもへ、過分之用金申附、是迄年貢諸役の甚しきに苦めり。
吾等最早堪忍成り難く湯武の勢、孔孟の徳はなけれども、無拠天下の為を存じ、血族の禍を犯し、此度志あるの者申合せ、不民困窮と相成候者を救はんとす。
去りながら、此の度の一挙、当朝の平将門、明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀反に類し候と申者是ある道理に候へ共、天下国家を簒盗致す慾念より起り候事には更に無之、日月星辰の神鑑あることにて、詰る処、湯武、漢高、明大祖、民を弔し悪を誅し天罰を取る覚悟に候、吾等の所業終る処に、爾等眼を開て見よ、
とある、意気慷慨の処相似たれども、天保の大塩宣言は堯舜、湯武を称し、劉裕、朱全忠たらんを恐れたるに反し、此の度の宣言は、堯舜に就て言はざるのみならず、極めて率直に満州簒奪政府の暴政を撃てるだけなるは、今日に成て楚粤に何等堯舜の権威なく、人心を収攬するに価値のないのを見たからであつた、是等が時代の変化と地方の状態に応じたものであらう。
△尚ほ茲に大塩檄には「明大祖民を弔し」悪を誅せる義に倣ふやうに書てある程だから、支那に於ては、是非是れを挙ぐるのが本統であるベき筈だが、寧ろ強者の権利を説て、何等明朝回復の意を示して居ない、世人の、或は是れのみでも大塩の一統でないと非難するものがあるかも知れぬが、是が太平天国の取り処である、従来満朝に反抗したものは、口癖のやうに明朝回復を唱ひた、天理教匪もそれであつた、而して其他の支那の政治小説は、皆明朝回復を骨子とせぬものはないが、余りにそれが月並式であるので、人心は之に何等の刺戟を持たなくなつた、それもそうであらう、
清朝建設されてから最早二百年にも成るではないか、されば明朝などヽいふのは、幾先代かの事で、今日では歴史家位の外は、誰れも知るものもない、斯るものを持ち出すのは時代後れである、鄭成功の忠臣蔵は、今日では芝居でも受けない時である、併し支那人気質の、多少読書でもある人物が事を起すと、直ぐ時代ジミた名義を担ぎたがるので、最近で天理教がそれで馬鹿を見たのである、然るに日本で堯舜、湯武、漢高祖、明大祖を唱ひたものが支那へ来て、スツカリ遺れたやうに方法を改めたのは、余程時代に感発したからで、而も斯る思ひ切つたことは、支那人では出来る事でない、是れが格之助の洪秀全が豪い処、日本人である処だ。