Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2003.2.4

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎

−太平天国の建設者大塩格之助−」

その8

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収


適宜改行、読点を加えています。

△斯くて格之助洪秀全の軍は、広西巡撫を迫て潯陽城を取り、之に拠て各方面出征の部署が定まると共に、一篇の宣言書を発表した、或は北京の征討将軍欽差大臣林則徐の歓降書に答へたもので、総督は此の書を得て俄かに重体に陥り、遂に死んだのだとも言はれるが、兎に角挙兵の理由を宣言したものである、其の書に曰く、

先づ斯ういふ意味である、支那には何等の文書が残て居らぬので、西洋人の聞書きに依るのだから、満足な意味は取れないが、此の宣言は、満清政府顛覆の革命宣言で、未だ太平天国建設前一般の宣言と見て然るべきであることは勿論だ。

△此の宣言書を読むと、吾等は、大塩の檄文に比して、多大の興味を感ぜざるを得ない、茲に大塩檄文の一部を抄録して比較せば、其の変化を見られるであらう、

とある、意気慷慨の処相似たれども、天保の大塩宣言は堯舜、湯武を称し、劉裕、朱全忠たらんを恐れたるに反し、此の度の宣言は、堯舜に就て言はざるのみならず、極めて率直に満州簒奪政府の暴政を撃てるだけなるは、今日に成て楚粤に何等堯舜の権威なく、人心を収攬するに価値のないのを見たからであつた、是等が時代の変化と地方の状態に応じたものであらう。

△尚ほ茲に大塩檄には「明大祖民を弔し」悪を誅せる義に倣ふやうに書てある程だから、支那に於ては、是非是れを挙ぐるのが本統であるベき筈だが、寧ろ強者の権利を説て、何等明朝回復の意を示して居ない、世人の、或は是れのみでも大塩の一統でないと非難するものがあるかも知れぬが、是が太平天国の取り処である、従来満朝に反抗したものは、口癖のやうに明朝回復を唱ひた、天理教匪もそれであつた、而して其他の支那の政治小説は、皆明朝回復を骨子とせぬものはないが、余りにそれが月並式であるので、人心は之に何等の刺戟を持たなくなつた、それもそうであらう、

清朝建設されてから最早二百年にも成るではないか、されば明朝などヽいふのは、幾先代かの事で、今日では歴史家位の外は、誰れも知るものもない、斯るものを持ち出すのは時代後れである、鄭成功の忠臣蔵は、今日では芝居でも受けない時である、併し支那人気質の、多少読書でもある人物が事を起すと、直ぐ時代ジミた名義を担ぎたがるので、最近で天理教がそれで馬鹿を見たのである、然るに日本で堯舜、湯武、漢高祖、明大祖を唱ひたものが支那へ来て、スツカリ遺れたやうに方法を改めたのは、余程時代に感発したからで、而も斯る思ひ切つたことは、支那人では出来る事でない、是れが格之助洪秀全が豪い処、日本人である処だ。


「大塩平八郎」目次/その7/その9

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