Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2003.2.11

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎

−太平天国の建設者大塩格之助−」

その9

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収


適宜改行、読点を加えています。

△楚粤革命軍は此の宣言を発表すると同時に、四方に義を殉へたが、丸で無人の域を行くやうな勢である、林則徐が死んでから、李星阮といふものが欽差大臣に任命されて、桂林まで下つて来るが、此が北上先鋒軍の為に敗られて、是れも亦軍中に死んだ、此の間に格之助洪秀全軍は、遂に大挙して広西平楽府永安州城を陥れた、此の間兵を挙げてから四ケ月目である、是に於て、遂に革命軍は統一の都合上、国号を立て太平天国と称し、格之助洪秀全自ら天王と宣し、年号を立て葵開元年と曰つた(咸豊元年二月也)時に二月十九日で、是れが恰も大阪乱亡命後十八年目の紀念日である、而して此の日各方面の文武官を任命した、

而して憑雲山は兼て王丞相軍師を預かり、東王が副将軍である、其の東西四王は、即ち我が古制西道将軍任命の例に取つたものであることは言ふまでもあるまい、当時の詔書はこんなものにして伝はる。

是れは坊間に伝つたもので、甚だ日本流の漢文である、先づ其の一斑を見るに十分であらうと思ふ。

△此の詔書文の日本体であることはいふまでもないが、更に年号に「葵開」といふ文字を引用したことも甚だ意味がある、元来支那では年号などに、決して或る名詞に成つて居る字を用ゐない、是れは各代の年号を調べても分ることである、然るに茲に破格の「葵」なる名詞を使用した、総てが格例古式を打破したといふのはよいが、茲に改まつて「葵開」と称したといふは、意味を持たねばならない、葵は日本では「アオイ」草の名としてあるが、葵は日車草の漢名である、日車草とは太陽に向つて廻るからで、太陽に向つて廻ることは、日本でも支那でも「葵向」として臣民の君主に附き随ふこと、葵の日に従ふ意味である、

格之助洪秀全が、今革命軍と称して満清転覆を計て居るのと、甚だ意味が反するではないか、併し人民が太平天王に附き廻るとせば、それまでヽあるが、それには、建国とか太平などの如き年号こそ然るべきではないか、又従来の新王国の例もそれであつた、斯う考へると、吾等は新に此の字を年号に選んだのを以ても、洪秀全の太平天国は、蓋し万世一系の日本皇室に向つて開かれた一新王国であるといふ隠語として用ゐられたものと見ねばならぬのである、それでなくて、一新王国が兼て選んだ年号に、破格の文字を使用して、「葵開」と称したことの出典が分らないではないかと思ふ。

△それから太平天国は、天国即位後の二ケ月には、敏速に新條例の編制、文武官の任用令、賞罰令、地方官制等を発布したといふのであるが、惜い哉、今日に伝はるものは甚だ少ない、然るに茲に太平軍の用兵戦術に就て、見逃すべからざるの一事がある、是れは広西巡撫の手紙を訳したものである。

是れ又日本人ならずして然るべからす、而して当時此の秘法を極めるもの亦、我が大塩以外に見ることが難きものである、大塩の兵法に精通せるは有名なるものにして、先生は之を陽明先生著「歴朝武機捷録」に得たのである、是れは、我が国では平山子龍の講じた兵術で、大塩先生は、之に依つて最も孫子に通じたものであつたのだ、尚ほ此の頃の支那は、前にも云つた通り、満朝に成つてからは総て古歴史を破却した結果、医学暦学を除く外、孫呉の兵書などは勿論、其他の物では之を読むべき道が無かつた程なので、尭舜さいも御存ない程の荒廃をして居たのである、何の暇あつて誰が孫呉の兵を知るものがあらう、吾等は此の戦術一つを見ても、太平軍の中には沢山の日本人が従軍して居たことが分ると思ふ、而して大塩格之助洪秀全が、陽明の「歴朝武機捷録」に得たものが、茲に此の秩序ある大軍を動かした、と断言して憚らないのである。


「大塩平八郎」目次/その8/その10

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