とら かたつばし
文政の十年に天主教徒を京阪地に捉へて、片端から所罰したので、メキ
/\と名声を上げたが、感ずる所あつて早く隠居して洗心洞塾を開き、専
ら子弟を利導した。
ひき
天保四年から七年まで打続いた不作は、遂に天保飢饉なるものを惹起し
た。
其当時の米の相場を記すと、京都では米一升が二百二十文、大阪では二
百文、江戸では百文で二合八勺……と云ふ前代未聞の高値を示した。
『うき世の有様』の筆者は、
下賤のものは、小児は生乍ら悉く川へ流捨て、老人は捨置きて餓死
せしめ、其死のおそきを厭ふといふ浅ましき事なり、
かくこ
と記してゐる。正に生きながら地獄の有様である。されば畏くも
仙洞法皇様は
わが為に何を祈らんあまつ神
民安かれと思ふばかりぞ
と御詠み遊ばされた。平八郎は日に/\憂鬱になつて行つたが、或日門
人に、
『河内屋吉兵衛を呼んで呉れ……同業者を二三名連れて参れと申してな
……』
『は』
吉兵衛は時を移さずやつて来た。
『えゝ、殿様、何御用で……』
『一人か?』
『いえ、喜兵衛、源十郎、茂兵衛の三人を召連れました』
『それは大儀であつた。申兼ねた儀ぢやが、拙者の蔵書全部を、精々高
価に引取つて呉れ』
『あの、全部と申しますと……』
『中斎が生命の代りとまで思ひ込んでゐた、書籍全部ぢや』
『失礼ながら、いかほど位御入用で……』
『一文でも多く欲しいのぢや』
かしこま
『畏りました』
四人の書肆は、相談して四十貫に買取つた。大塩は直ぐにその金を一人
づゝ わづ
当り一朱宛施したが、その数は極めて尠かなものであつた。
大塩が持つたる本を売り払ひ
・・・
これぞむほんの始なりけり
とは其頃流行の落首であつた。
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