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大阪の油懸町の、紀伊国橋を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目
おやこ
に美吉屋と云ふ手拭地の仕入屋がある。そこへぬつと父子は這入つた。
のぞ
あるじの五郎兵衛は笠の中を窺き込み乍ら、
『どなた様でございます』
と聞いた。
『わしぢやよ』
かむ
中斎は初めて被つてゐた網代笠をぬいだ。
『アツ、大……』
しつ
『叱』
よ
『まア、好うごぶじで』
かくま
『迷惑であらうが、当分匿つて呉れ、頼む』
『はゝはい』
年来の恩義もあるので、五郎兵衛には、いやとは云へなかつた。
一月余りは無事だつた。大塩は離れの小座敷で朝から晩まで小声で題目
かな
を唱へてゐた。併し結局上役人の眼には敵はなかつた。父子が美吉屋に隠
れてゐる事を、いつか目明しの末吉平左衛門がかぎ出して、五郎兵衛を呼
出して調べて見ると、隠し切れないで、残らず白状した。
『それツ』
とざ
と云ふので、美吉屋に捕手を向けると、中斎は先づ中から堅く戸を鎖し
て、
『格之助、潔く死んで呉れ、父も直ぐ後から参るぞ』
じがげ どくじゆ の ど
と格之助を刺殺し、静かに自我偈を読誦し終つて自分も咽喉を突いて死
んだ。余り中が静なので、捕手は戸を蹴破つて飛込むと、濛々と立昇る黒
煙部屋の四隅に仕掛けてあつた火薬が一時に爆破した。漸くにして引出し
た父子の死体は黒焦げになつてゐた。時に天保八年三月二十六日、中斎年
四十八であつた。
か う
大塩の計画は、将軍をどうしようの、所司代を斯様しようと云ふのでは
ない、先づ大阪市中の富豪の金を取り出して貧民に分配し、更に進んで常
によからぬ事のみ働いてゐる、町奉行共に一泡ふかせてやればそれで好か
つたのであつた。
果してこの一挙によつて我利私慾の俗吏共を心胆を寒からしめたのみな
らず、物貨調節の端緒を見出し得た事は、全く中斎の勲功と云はなければ
ならない。厳密に云へばこの行動は隠やかでなかつたかも知れない。併し
熱血男児の中斎には、あの時あの場合、斯様するより外は無かつたのであ
つの
らう。紛々たる毀誉褒貶の如きは彼に取つては牛の角を蚊が刺した程しか
感じまい。
中斎の墓は門人田能村直入に依つて明治三十年神無月に大阪天満東寺町
日蓮宗成正寺に建てられた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その159
目次
大塩父子の自殺
は3月27日
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