このことを更におしすすめて行くと、鴎外は、歴史的情勢と、一般的
なその前提條件だけは理解してゐたが、しかし、このやうな情勢が、い
かなる人間的活動によつて、一定の歴史的事件にまで昂つて行つたかを、
充分にその本質的なあり方に於ては知つてゐなかつたのではないか、と
いふところまでくるのである。つまり、鴎外は、当時の庶民達の実際上
の生活が果してどんなものであつたかを、具体的には知つてゐなかつた
のではないかといふことである。そのやうな庶民達の生活の流れと、そ
の大きな歴史的流れの中心に立たされた大塩の生活とが、どのやうに生
きた人間的関係を結んでゐたかを、充分には意識的理解として持つてゐ
なかつたのではないか、といふことである。
このことは、確かに鴎外自身も、意識的な理解にまで到達してはゐな
い様に思はれる。そのもつとも明瞭な証拠は、庶民の生活と、大塩一党
の生活との間の生きた関係の欠除にある。鴎外は、否定することのでき
ない歴史的事実によつて、大塩の門人のなかに、大阪附近の農民達が多
数参加してゐたことを書いてはゐる。たとへば、深尾才次郎、河内交野
郡尊延寺村百姓、とかいてゐる。茨田郡次、河内河内茨田郡門真三番村
百姓と書いてゐる。また、高橋九右衛門、河内茨田郡門真三番村百姓と
か、柏岡源右衛門、摂津東成郡般若寺村百姓、柏岡伝七、同上忰、西村
利三郎、河内志紀郡弓削村百姓、木村司馬之助、摂津東成郡猪飼野村百
姓等々と書いてゐる。実に、彼の門人の三分の二は大阪近郷の農民達で
あつたのである。大塩は、これらの門人達を通じて、深く農民生活に結
びつけられてゐたことが想像せられる。それは単なる人間的な師弟の関
係を超えた、大きな運命的関係とでも言へようか。止むに止まれぬ時の
勢とでも言はうか。彼をとりまくこのやうな関係の内部的脈絡は、いま
だ充分には探索されてゐない。けれども、それは、実に動かすことので
きない、情熱や、意志や愛情や決意に促されながら、さながらそれが彼
自身の意識的行動であつて、しかも自らいかんともしがたい一種の歴史
の意志のごときものに支配されてゐるのを見る。自己と外界とのかかる
相反撥する交渉と統一のなかに、大塩は、その悲劇的な運命を果さねば
ならなかつた訳である。
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