Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.8.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」について

その6

岩上順一

『歴史文学論』文化評論社 1947 所収

◇禁転載◇

五 歴史的運動の集約的表現
 「大塩平八郎」について(6)
管理人註
   

 もちろん、鴎外は、それをある程度正しく理解してゐたのである。た だそれは頭の中で理解されてゐたに過ぎなかつた。それが事件の本質的 な支配的要因であることを、生活の実感にまで切実な要素としては感じ ることができなかつた。それ故にこそ、それを作品のなかで、芸術的な 要素にまで高めることができなかつた。ただ、知識または理解として、 それを知つてゐたにすぎなかつたのである。知つてゐるけれどもそれを 小説の枠のなかに入れることはできなかつたのである。そこで、この枠 に入らなかつたものを「大塩平八郎附録」のなかに記述せずにはゐられ なかつたと見るべきであらう。  詳しい引用は省く。ただ、鴎外が知つてゐたことのうちから、その当 時の米の作柄のことだけを書かう。  「大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方 に凶歉があつても、すぐに大影響を被る。………天保元年、二年は豊作 であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が 小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非 常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために江戸で白米が一両につき 四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値は文政頃一両に付二石であつた のである。五年になつても江戸で最高価値が前年と同じであつた。七年 には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両 に付一斗二升、百文に付二合になつた。大阪では………一石二十七匁五 分の白米が二百匁近くなつてゐたといふことである。七年の不良な景況 は八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小 売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだといふ記録がある。」  読者は、鴎外の「大塩平八郎附録」によつて、彼の行動がどのやうな 歴史的情勢によつて惹き起されたものであるかを、鴎外自身どのやうに 深く調べつくしてゐたかといふことをを、理解されるに相違ない。この やうな歴史的情勢を、これほどまでに深く知つて居りながら、鴎外は、 何故にそれを、この作品自身にとつても不可欠な基礎構造としてとらへ ることをしなかつたのであらうか。















森 鴎外
「大塩平八郎」
その16























鴎外では
「最高価」
でなく
「最高価


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