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もちろん、鴎外は、それをある程度正しく理解してゐたのである。た
だそれは頭の中で理解されてゐたに過ぎなかつた。それが事件の本質的
な支配的要因であることを、生活の実感にまで切実な要素としては感じ
ることができなかつた。それ故にこそ、それを作品のなかで、芸術的な
要素にまで高めることができなかつた。ただ、知識または理解として、
それを知つてゐたにすぎなかつたのである。知つてゐるけれどもそれを
小説の枠のなかに入れることはできなかつたのである。そこで、この枠
に入らなかつたものを「大塩平八郎附録」のなかに記述せずにはゐられ
なかつたと見るべきであらう。
詳しい引用は省く。ただ、鴎外が知つてゐたことのうちから、その当
時の米の作柄のことだけを書かう。
「大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方
に凶歉があつても、すぐに大影響を被る。………天保元年、二年は豊作
であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が
小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非
常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために江戸で白米が一両につき
四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値は文政頃一両に付二石であつた
のである。五年になつても江戸で最高価値が前年と同じであつた。七年
には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両
に付一斗二升、百文に付二合になつた。大阪では………一石二十七匁五
分の白米が二百匁近くなつてゐたといふことである。七年の不良な景況
は八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小
売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだといふ記録がある。」
読者は、鴎外の「大塩平八郎附録」によつて、彼の行動がどのやうな
歴史的情勢によつて惹き起されたものであるかを、鴎外自身どのやうに
深く調べつくしてゐたかといふことをを、理解されるに相違ない。この
やうな歴史的情勢を、これほどまでに深く知つて居りながら、鴎外は、
何故にそれを、この作品自身にとつても不可欠な基礎構造としてとらへ
ることをしなかつたのであらうか。
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森 鴎外
「大塩平八郎」
その16
鴎外では
「最高価値」
でなく
「最高価格」
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