Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.4

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大塩の乱関係史料集目次


『事 々 録』 (抄)

その39

三田村鳶魚校訂

 『未刊随筆百種 第6』米山堂 1927 収録

◇禁転載◇


天保八丁酉年

饑饉、

天保四癸巳年夏四月より同五甲午年四月迄は、京師二條の御城に役に登り候内、此一両年より凶作打つゞき、京師市中粮米には大根芋の類を飯中に焚入候て露命をつなぎ候者ども多く、餓死に至り候者も粗承り及び候故に、江府にも裏店住居の者白飯(ハクハン)をたべ候者有之候得ば、世間憚らざるに似て店長是を誡め候て、麦挽割を食すべきを命じ候得ば、折ふしに白飯を貯候とて飯鉢を朝暮に改歩行候と承及候、されば江戸に立戻り候時も空地に畑物作りをき候をば、深夜垣を破りて一茎(キウ)も余さず盗取候、

かくて同七丙申年秋八月より同八丁酉年秋八月迄は、摂陽大坂の役に御塩噌を奉行して彼の地に月を送候比は、ます\/五穀不毛にて、全く飢饉の色を顕はし候は、天明七丁未年の昔諸国凶作にて飢饉に苦しむ由は、愚老はわづかに五才の頃なれば、父兄の示し、老人の物語にきゝて只徳利へ米を入て搗たるをおぼろげに覚へ候のみ、実に其時は米商等私欲に耽候て、倉庫に俵を積隠し、価高く売出し候と憎み恨み、打壊チと号し、町\/を乱妨に及び、米を出して往来へ蒔く、其党数千人町、奉行も是を制するあたはず、何者の業といへる事もなく散乱して有所を知らずと承候、
今度の飢饉には左様の沙汰も候はず、たま\/余風ありといふとも纔に壱弐軒をこはして、彼等忽に召捕られ候故、再び此事も承はらず候ぬ、只々窮困に逼り候有さま、先ツ江戸白米壱升に銀四匁五分、京都は弐匁八分、爰もと大坂いつも両都よりは価安くといふとも壱匁八分弐匁に至る、故に麦壱升弐匁をこヘ、大豆も弐匁、小豆は三百六十余泉にして、時としては米よりも貴つとくこそ、野菜も准之とぼしく、是か為に力を費す者どもゝ、是か為に調作の品も皆々高直に成候ぬ、江戸も大根の茎葉残す所なく高直に売て、是を争ひ求メ候よし、
大坂番場玉造近在の広野に、婦女子出て草根を摘取り餅を製する、門には小豆の皮糟を捨て犬さへ食ざるを拾ひ取候ゆへに、少しにても食の為に成る物は士砂の汚れをも厭ひ候はず、
三都すらかくの如し、況や辺鄙の雑食、藁をり、竹実を炊ぎ、木 皮をも甘じ候やらん、日に\/雇はれて力業する者ども痩行て、日頃の如く働かね、おのづと世われりがたく乞食に立交る故に、門に立て貰ふべき者は追々ふヘ、施すべき者は己か食にる故に施しかね候まヽ、道路行倒の餓死、大概日々三郷の内には数十人に至り、町奉行所に届くる月々七拾人、八拾人或は百人に至り候、
爰にをいて豊作の祈念にとて公儀より、

其余も夫々御祈有之、准之江戸市中御救米有之候上に、御趣意米と名つけ候を米屋に御下ケ、町家壱人ニ付弐合ツヽ、日々是 名主より切手出候て、買主日々徳利ニて白気かへつて、其分量は日々買候事ニて、上には厚き思召も如何成る行違ニて、 其米至つて悪米ニて、たとへ切手たりとも、是を買不申候由、依之又々張直し、是へ市中米と名つけ候を並べ売申候由、且米屋はしたに銭を売る難義のよしゆへ、米屋に両替を御ゆるし有候て、其三様の張礼、


『事々録』目次/その38/その40

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