高野真遜編 忠愛社 1886 所収
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| 大塩平八郎大坂ニ於テ暴動ノ始末 科書 平山助次郎 |
大坂町奉行
跡部山城守組同心
酉七月十六日、矢部矢部左近将監 |
(自殺) | 平山助次郎 戌三拾三歳 |
此平山助次郎儀、組風之旧弊等、奉行存寄を以、改革可致は素之儀に候処、組内勤向未熟、又は我意申募風儀に拘り候者は、組替申付可有之旨風説承、身分之懸念は無之候得共、自然右之通成行候ハゝ、向組江対し、不外聞之儀と歎ケ敷存、且は向組之者共、取計向をも疑惑いたし候折ネ、兼而学問并勤向心得方をも教示受、随順罷在候同組与力大塩格之助養父大塩平八郎、右風聞之趣等彼是噂およひ候を承、弥心得違存迫、殊に平八郎儀、相弟子渡辺良左衛門等を以、異変之節心懸之儀、度々相尋候を難心得存、容易に組内之者江応対難相成、役前をも不顧、平八郎方江忍参、及面会、剰違作打続、諸民及難渋、一体御政事向ニ付、平八郎存意に不応儀間々有之、世を憂候心難堪候間、民を吊候大義を唱、往々王道に帰候様いたし度、就而は謀計を以、奉行を討取、大坂 〔存命に候得は、引廻之上於大坂磔可申付処、改心いたし、 賊徒発起以前、謀計之次第、及密訴候ニ付、御仕置御宥恕之上、取来高之儘、御譜代被 仰付小普請入〕〔〕ノ内朱書 |
右之者吟味仕候処、同組同心平山勇右衛門伜ニ而、文政三辰年中見習勤被申渡、同六未年中、父勇右衛門病気ニ付、御暇跡番代申付有之、無程同人病死いたし、其以前
同組与力大塩格之助養父大塩平八郎学問之弟子に相成、読書等いたし候処、去々申正月中、大久保讃岐守組之節、町目付と唱候役附申渡有之、右は都而町奉行組与力同心共、勤方并市中風聞其外、奉行手元隠密御用筋取計候勤向故、近親之外組内之もの宅江罷越候儀は勿論、容易ニ出逢も不致仕来ニ付、おのつから平八郎方江も遠々敷相成、廃学いたし候儀に有之、一体大坂表町奉行所之儀、東西弐組に相分、山城守組筋を東組、堀伊賀守組筋を西組と唱、万端御用向月番を立取計候儀ニ而、平八郎勤中は、御用向精心を疑し奉行取用も格別ニ付、相組与力同心共之内には帰伏之ものも不少候処、同人儀、御用筋熟練いたし候に随ひ、時々一己之申分を以、奉行差図を拒候儀も有之候得とも、終には平八郎見込之通相成候故、追々慢心生し、御政事を批判いたし候儀も有之、去ル寅年中、同人隠居いたし候後は、別而文武を励、折々経書講釈等も有之候ニ付、右町目付役に不相成、以前は聴聞に相越、其度毎御用向取計振をも承合候儀有之、都而同人に随順罷在候儀之処、去々申五月頃と覚、相弟子共
承候は、平八郎隠居後、近来東組奉行に限在勤無間も江戸表江被召返
公辺不首尾之様に被察、右は西組与力同心共取計に寄候儀にも可有之、平八郎儀、隠退之身分とは乍申、残念之由申居候趣承知いたし、此者におゐても同様之心得に候処、同七月中、山城守着坂後、組与力同心共風儀不宜、勤向未熟、又は存寄之趣申募候者も多人数有之、奉行に随順不致候故、右体之者、其儘差置候而は奉行役前にも拘り候間、取調之上、外組与力同心等江組替申付、御用弁之ため、西組与力
助役申渡候方可然抔、両奉行内談も有之哉之風説承り、素々奉行之取示不行届
公辺不首尾に相成候を、却而組之者共不用立故之様に被申成、組内不快之者も有之、其砌平八郎におゐても別而憤怒いたし候由及承候得共、畢竟風聞迄之儀ニ付、其儘打過候処、同九月中西組奉行参府後、右組与力之内、山城守方江折々呼寄御用向申談、又は組与力同心共出勤刻限其外之儀ニ付、同人
書付を以申渡有之、追々役所向改革も有之候様子ニ付、然ル上は組替等之儀も相違有之間敷、此者儀は町目付役をも相勤候間、懸念之筋は無之哉に候得共、前書之次第に成行候而は、西組之者江対し不外聞に存、心配罷在候折ネ、同月日不覚、平八郎門人同組同心渡辺良左衛門罷越、自然異変等有之節、忠孝之ためには身命を抛候哉、兼而存念承置候様平八郎差図之旨申聞、不審之儀とは存候得共、忠孝可相励は素
之儀故、平常右覚悟もいたし候趣
及答候処、其後も折々、何となく覚悟は宜哉之旨、外門人共代々申参、何分意味合解兼候間、同十二月以来、夜中両三度、平八郎宅江罷越、及面会、同人心底相探候処、近年違作打続、米価高直ニ而諸民及難渋、既此節於甲州、一揆起立候風聞有之、当表迚も不時に異変生間敷とは難申、其上当時御政道向ニ付而も、平八郎存意に不応儀間々有之、隠退之乍身分、世を憂候心難堪、孔孟之徳、湯武之勢位は無之候得共、鉅橋鹿台之財粟を被与候遺意に傚ひ、民を吊候大義を唱、往々王道に帰し候様いたし度、就而は山城守等謀計を以討取、大坂
御城を始、諸役所向其外市中をも焼払、豪家之者共貯置候金銀并諸家蔵屋敷囲穀等窮民共江分遣、一旦摂州甲山江楯籠、時合を量り、計義成就為致候積ニ付、弥発起之節は一味に可加、尤門人共之内、同組与力瀬田済之助、小泉淵次郎、同心吉見九郎右衛門、庄司義左衛門、近藤鍋五郎伜近藤梶五郎、河合善太夫伜河合郷左衛門、前書良左衛門等も、兼而同意之趣平八郎申聞、不容易儀とは存候得共、平八郎申分徹心いたし候廉も有之、殊済之助其外之者共も一味いたし候儀ニ付、同意之旨及答候処、去酉正月八日、右良左衛門、梶五郎儀、平八郎差図之趣を以、板行摺檄文持参、連判可致旨申聞、差出候問、一覧いたし候処、
〔本文檄文之趣、徒党之もの共乱妨およひ候砌、大坂最寄村々江捨置候由を以、支配御代官等
御勘定奉行江追而差越候書面左之通御座候〕
〔檄文略〕 〔〕ノ内朱書
反逆之志、顕然たる文段ニ付、対
公儀重々恐入候儀には候得共、右書面之裏に、同意之趣相認、済之助其外同意之もの共連判有之、右体之次第に候上は、其余組内之もの共迚も、右企に一味之程難計存、旁右檄文裏江連判いたし候儀之処、其後窮民救之ため、平八郎所持之書籍類売払、右代金を以、大坂安堂寺町五丁目本屋会所におゐて、壱人江金壱朱ツゝ、壱万人分、切手引替に施行いたし候趣、同人
承候得共、右は兼而申合候一條ニ付、人心帰伏為致候計策にも可有之と其儘打過候処、右施行之次第、山城守
格之助江察度有之候由及承、役前之儀ニ付、一通り山城守江申聞置候処、
〔此儀大坂町奉行江懸合承糺候処、去酉二月上旬、本文大塩平八郎
、同所町人共の内、困窮之者多人数江、施行金差遣候事之由、跡部山城守承込、右は平八郎一己之慈善に候とも、多人数江施行いたし候儀に候上は、格之助より一応山城守江可申聞筋と心得、同組与力を以、平八郎父子存念為相糺候処、米穀高直ニ而諸人難渋致し候時節ニ付、窮民を救遣度候得共不及力候故、所持之書籍売払、致施行候儀ニ而、平八郎は隠居之身分、別段相届候にも及ひ申間敷存、右様取計候段、父子共心得違之旨申立、右施行今一日に相成候得共、最早相止可申哉之旨をも申聞候間、右施行金調達方之儀も相分り候上は、前以申触置候儀を、俄に差止候も不穏、最早一日限り之儀に候ハゝ、穏便に取計候様、山城守
申聞置候儀ニ而、勿論其節
如何之風聞等不相聞、尤堀伊賀守、彼地着坂いたし、混雅之折ネ、廉立候事ネにも無之候間、山城守限承置候儀之旨、右町奉行申聞候儀に御座候、〕 〔〕ノ内朱書
同二月十五日、良左衛門罷越、兼而平八郎企之趣、弥十九日に治定いたし候由、尤同日は、両町奉行市中巡見ニ付、平八郎向屋敷同組与力朝岡助之丞宅、奉行休所に相成候間、其節大筒を以、一同討取、兼而申合之通、所々及放火候積ニ付、為心得可達旨、平八郎申聞候段、良左衛門咄聞候間、承知之趣及答候得とも、再応思弁いたし候得は、全反逆之企に組し、洪太之御恩沢をも不顧、不忠不義之汚名を請、忽天罸を蒙る外有之間敷、如何にも恐入候儀と、心中迷動いたし居候内、翌十六日夜、平八郎方
呼に参り罷越候処、
其外武器餝立候を為見、前書良左衛門を以申聞候通、十九日決定之趣、猶又申聞候間、承知之旨及答、帰宅後、弥密訴可致と決心いたし候得共、組内一味之者共役所之詰合罷在、容易難申立、彼是勘弁之上、翌十七日夜、山城守役所江密々罷出、同人用役野々村次平を以申入、山城守江面会およひ、平八郎企之次第、一味之者共名前、并此者儀も一味に加り候得共、恐入改心いたし候段、且此上平八郎等、此者密訴之次第洩聞、何様之異変可生も難計候間、厚く勘弁有之候様いたし度旨をも申立候処、いつれにも此者は速に江戸表江罷下り、矢部左近将監方江可罷越、表向は京都江為御用差遣候趣に取計可申旨、山城守申聞、左近将監江之書状相渡、路用等手当いたし呉候間、一旦帰宅之上、家内之者江は始末不申聞、小者多助召連、立出候得共、道中不案内ニ付、兼而懇意に立入候大坂谷町壱丁目清左衛門店弥助は、道中通日雇相稼候ものニ付、同人相雇、尤京都迄之約束ニ而引連、同十八日暁七時頃、大坂表出立、途中ニ而出府之趣咄聞、道中差急、同廿三日、遠州今切渡海之節、大坂表大火之由承り、扨は平八郎企相発候儀と心得、弥差急候得共、川留等ニ而手間取、同廿九日夜、江戸表着、左近将監方江罷出、山城守
之書状差出候処、一通り糺之上、大岡紀伊守家来江預に相成、
〔此儀平山助次郎密訴いたし候後之手続等、大坂町奉行承糺候処、去酉二月十七日夜、助次郎儀、山城守手元江罷越、平八郎不容易謀計を企、瀬田済之助其外之もの共同意いたし、既同十九日、山城守、伊賀守天満辺巡見之折を見合起立候積、助次郎も右企に一味いたし候得共、今更恐入及密訴候段申聞、不容易儀ニ付、同人を留置、虚実可相糺処、山城守組には、平八郎文武之門弟も夥多有之、自然助次郎内訴之趣無相違候ハゝ、平八郎江響可申哉難計、然ル時は、賊徒共捕押方手配にも差支可申と存、助次郎は役用有之、上京為致候姿に取計、山城守内状相添、矢部左近将監御勘定奉行之節、同人方江向差下候儀之旨、大坂町奉行申聞、左近将監方江助次郎持参いたし候右内状は、前書委細之始末は不相認、同人差下候事而已之文面ニ而、其以前山城守
、急便別書を以、荒増異変之趣、并助次郎差下候儀をも左近将監方江申越候事之由、同人先役之節、私共江も申聞候儀に御座候〕 〔〕ノ内朱書
其後評定所一座江引渡に相成、酒井大和守家来江預替申付有之候儀ニ而、尤先達而左近将監方におゐて糺之節、日夜心配之上、長途差急逆上いたし罷在、覚違候儀等申立、又は不容易企にー味いたし候儀を深く恐入、密訴之次第彼是品能申立置候処、追々吟味之上、心得違之旨相弁、有体申立候儀之旨申之候付、右始末重々不届至極之段吟味詰候処、無申披誤入候由申之候、
〔本文多助、弥助吟味仕候処、多助は去ル丑年中
、前書助次郎方に奉公いたし罷在候処、去酉二月十七日夜、主人助次郎儀、京都迄急御用筋有之候間、供いたし候様申聞、翌十八日暁七時頃、同人に附添立出候上、前書弥助をも相雇、一同大坂表出立いたし候途中、助次郎儀は、実は出府之趣申聞、夫
東海道筋差急、江戸表江着いたし候次第は、同人申立候通無相違旨申之、弥助は、助次郎儀、御用筋有之、京都迄俄に出立いたし候間、道中案内之ため召連候旨任申被雇参り候途中、出府之儀申聞、断もいたし兼、同人に附添江戸表江罷出候儀之旨申之、本文申口符合仕、両人とも不埒之筋相聞不申、尤先達而助次郎一同、大岡紀伊守、其後酒井大和守江預申付置候間、落着之節無構段申渡、夫々引渡遣候様可仕候〕 〔〕ノ内朱書
実録彙編第七 終
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