Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.7.8修正
2002.2.12

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大塩の乱関係論文集目次


『茨田郡士(まったぐんじ)が駆ける大塩平八郎の乱』

門真市立歴史資料館
2002.1 より転載

◇禁転載◇

(内容の配列は一部変更しています。)




展示記録「茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱」


門真市史資料集(第1号)野口家文書「大塩事件関係史料」(参照)

 三番村で事件関係者が約50人

 「大坂元御組与力大塩平八郎市中乱妨当村郡次九右衛門掛リー件手続書留」によると郡士らの取り次ぎにより大塩平八郎から施行金を貰って、騒乱当日に人足として天満まで加勢に駆けつけた門真三番村15人のその後の顛末について詳細な記述があります。
 特に、3月17日から24日までの短期間に7人もの死亡者を出し(5月4日にもう一人死亡しており、あわせて8人)ています。
 弘化5年(1848)3月の「村鑑明細帳」によると、門真三番村の家数は80軒とあります。人数(人ロ)は、372人(男177人・女195人)。宝暦2年(1752)の「村明細帳」によれば、家数99軒、人数(人口)497 人とされています。
 このような規模の村から、茨田郡士や高橋九右衛門の他にも約50人という事件関係者を出したのですから、成人男子に占める割合は極めて高いことを示しています。

《加勢した人足の顛末》
 入牢出牢村預け病気届出死亡他参留仰付他参留御免備考
軽処分惣 七
庄三郎
清 八
2/21

(3/12出牢他参留) 
3/20
5/4
3/12

3/16

重い処分・死亡者伊 助
宗 助
惣兵衛

徳兵衛
甚 六
(佐)兵衛





2/24
2/21
3/12





3/20




3/17
3/22
3/24
3/21
……
3/24
3/17
3/20
…………「口上覚書
等」にも出
てくる
…………
重い処分・生存者磯 七
惣(宗)八
又右衛門
九郎兵衛
彦右衛門
久五郎










  5/4




  

《無罪または微罪者》
重右衛門
又七
2/23召捕同日釈放
  〃
施行貰請者
33人(32人?)
3/4他参留3/11構いなし
騒乱の現場へ不参加



豪農茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱

 門真市域には数々の歴史が残されていますが、なかでも江戸後期に起きた大塩平八郎の乱は、門真市域の村々からも多数の参加者・処罰者を出した大変な事件として語り伝えられています。
 天保8年(1837)2月19日、大坂東町奉行所元与力大塩平八郎は、門弟の与力・同心・豪農層などを主力として、近在の農民にも呼びかけ檄文を発し「救民」の旗をかかげて腐敗政治の刷新を求めて決起しました。挙兵には農民などおよそ300人が参加しました。
 とりわけ、門真三番村(現在の堂山町・小路町)からは、茨田郡士(茨田邸は現在の茨田公園、堂山町)や高橋九右衛門の外、約50人の事件関係者を出していたことが「大塩平八郎の乱」に関連する古文書から判明しています。
 今回の特別企画展では、「大塩平八郎の乱」に関して残されている茨田家を中心とした史料・遺品の数々を公開することによって、私財・家族・生命をかけて救民救済に立ち上った茨田郡士をはじめとする農民たちの姿に迫ることにしています。

茨田家の成り立ち

 茨田家は門真三番村(現在の小路町・堂山町付近)の旧家であり、大塩平八郎の乱に当主郡士が参加したことで知られていますが、家の成り立ちについては正確にはわかっていません。茨田家文書として保存されている「代々戒名書」には、初代栄邑が元和元年(1615)に没していることが記されています。
 また、慶安3年(1650)正月の日付を持つ同家「由緒書」には、「最祖は天児屋根命の苗裔で児玉と称し、姓は藤原氏、茨田郡十七ケ所44名士の一人に数えられ、禁裡の役も勤めていたが、のち武家の権威に従って姓を『蒔田』に改めた」と記されており、末尾には蒔田新左衛門と署落名しています。その後、正徳2年(1712)の文書では「蒔田」から「前田」ヘ改姓しています。
 「茨田」の姓が登場するのは明和元年(1764)からで、通称もそれまでの「又兵衛」から「郡士」ヘと変わります。自らが居住する地域名(河内国茨田郡)を苗字にし、加えて武士を連想させるような名前をあわせ持つことは、他の豪農たちと比べても特異です。
 このように今までとは異なる姓・名を生み出した茨田家8代栄孝は、享保13年(1728)に泉州伯太藩藩士今井家から茨田家に養子に入った人物で、北河内の豪農の家に武家の血が入ったことで、多分に武士的な名前が創造されたといえます。茨田家は名前だけでなく、実際に旗本今井帯刀家の家臣として堺の今井家屋敷に出向し、大坂町奉行所へも金銭訴訟に際し出頭しています。こうしたことから、茨田家は「農」と「兵」の両側面を持つ家であるといえます。

初代栄邑から9代栄武までの戒名・俗名をしるした史料。初代から7代までの呼び名は「又兵衛」「権兵衛」であったが、8代栄孝に至り「郡土」と改めている。また、8代栄孝・9代栄武はそれぞれ泉州伯太藩藩士今井家・大坂与力瀬田家といった武家から養子に入っている。

文政12年(1829)から天保3年(1832)までの雑記録。記事は郡士の家督相続、家計の悪化に始まり、村の困窮、文政13年の京都大地震、天保3年の淀川洪水まで多岐にわたり、その対応に追われる郡士の姿が垣間みられる。

茨田家系図

                (大坂与力瀬田                 八右衛門の倅)                  栄武     ┌―八作             (泉州今井  ┠―興栄(真栄) │     弥治郎(栄登)              勇記弟) ┌もん ┠―――┼―郡士(栄信) ┠―秀太郎(栄治) ┌郡士       ┌勝政    栄孝 │   じゅん │ ┠―――ふじ  ┠――――┤    ┌栄続┤   栄胤 ┠――┼女      │ のぶ     ひさ     └ひろ     │  │   ┠――女  │(葛岡家に嫁ぐ)  │ (和久田家より)  栄邑┤  └勝繁―女     └女      │    │             (岡田家に嫁ぐ)  ├―りく    │                    └―いく    │    └栄就―勝次
茨田家と茨田郡士

 茨田郡士は享和2年(1802)、父興栄(真栄)、母じゅんの間に次男として生れました。郡士には兄八作がいましたが、摂州嶋下郡別府村(現摂津市)堤家へ養子に入ったため、文政12年(1829)父興栄の跡を継いで、27歳の時に11代目当主となります。当時の様子を郡士は「見聞雑用控」の中で、 「家督を継いだことに対して身も引き締まる思いである」と述べる一方で、父興栄が旗本今井家の堺屋敷役人として勤仕することとなり、母じゅんとともに門真三番村の家を離れたことから、郡士は下男と二人で暮らすこととなり、家事が「不行届」になると述べています。
 しかし、郡士には早急にやらなくてはならないことがありました。一つは大きく膨らんだ自家の借財を返済すること、二つは村役人として若年にもかかわらず、村のなかでおこる様々な問題に対応していくことでした。
 借財が嵩んだ要因は兄堤八作への融資であり、加えて天保6年(1835)には郡士自身の結婚と父の葬儀が重なっことで天保5〜6年は20〜30貫目もの赤字を計上することとなります。また、村役人としては淀川の洪水に際しては、代官所に対し年貢の滅免願、夫食の拝借願など門真三番村の年寄として、 庄屋大西茂右衛門・野口五郎兵衛とともに署名しています。
 こうして村社会に「農」として生きていた郡土でしたが、曾祖父・祖父の代にそそぎ込まれた「武士」としての意識が薄れてしまったわけではありませんでした。むしろ、より強くなった感があり、自らの身分の確認を小堀代官所に求めるなどの動きを見せるとともに、展示品にみられるような甲冑・刀剣・弓 矢をそろえます。結果、こうした意識や行動が大塩平八郎へと結び付いていくことになりました。

2本の槍には螺鈿細工(らでんざいく)が施してあり、贅(ぜい)をこらしたものになっています。螺鈿細工とは、蝶貝やアワビ貝の光を放つ部分を切り取って木地にはめ込んだ装飾のことです。

茨田家旧蔵の刀は展示品(銘は相州住正廣と無銘)を含め五振が残っています。このことは茨田家が単に農民というだけでなく、多分に武士的であったことを示しています。

茨田郡士と大塩平八郎

 茨田家と大塩家―この階層も居住地も違う二つの家は、郡士と平八郎というつながり以上に古いつながりがあります。茨田家9代栄武(郡士の曾祖父)は大坂与力瀬田八右衛門の倅であり、大塩家とは同役である上に屋敷も背中合わぜに接していたのです。
 時代が下り、茨田郡士と大塩平八郎が出会うのは文政13年(1830)、郡士が大塩の家塾洗心洞に入門のときです。守口の白井孝右衛門の紹介であり、郡士27歳のときでした。しかし、茨田家に残された「金銀出入帳」によれば、正式な入門の3年前、文政10年にはすでに季節ごとに「大塩先生」宛に祝儀が送られています。当時、大塩は河内の門人達に招かれ、「出張」講義をしばしばおこなっていることを考えれば、橋本忠兵衛・白井孝右衡門など洗心洞の古くからの門人にまじって、郡士がはやい段階で大塩を見知っていたとも考えられます。
 入門してからは、冠婚葬祭の度に「大塩氏洗心洞先生様」「大塩名代」「塾中名代」など平八郎と郡士の問柄はより緊密になっていきます。それは、入門に際し「喪祭嫁娶及び諸吉凶は必ず某(大塩平八郎)に申告あるべきこと」と約束していたからですが、ただ単に儀礼的な関係や師弟関係だけではおさまらず、大塩と門人との間に濃密な関係を作り出すことになりました。こうした精神的にも強固な関係が基となり、乱にかかわる人々が大塩のもとに集まることになります。

 郡士が紹介者となって義弟和久田庄九郎を洗心洞に入門させたときの史料。入門にあたって大塩平八郎、倅格之助、塾中へそれぞれ献上品が贈られ、寄宿舎生活にかかる諸費用、書籍代・文具代、節季ごとの祝儀などが細かく記されている。

郡士と星田村和久田与次兵衛二女のぶとの婚礼の様子および祝儀の品を記した史料。「祝儀到来覚」には親類・近隣豪農にまざって、守口白井孝右衛門、般若寺村橋本忠兵衛、そして「大塩氏洗心洞先生様」が見え、大塩事件の主要人物が揃って記されている。

郡士栄信と大塩平八郎との関係を示すもっとも早い時期の史料。洗心洞に入門する文政13年(天保元年−1830)より3年も早く、1・3・8・9・12の各月には「大塩先生」ヘの祝儀が記されている。

 茨田郡士が使用していた洗心洞塾の教本で、大塩中斎の学問の枢要を弟子達の質問に答える形で明らかにしたもの。特にその学問が陽明学でも朱子学でもなく、訓詁・仁斎・徂徠のそれでもなく「孔孟学」と名付けたのは有名。同文のものが『儒門空虚聚語附録』にも掲載されている。

茨田郡士が学んだ洗心洞塾の教本で、塾では朱子の『大学章句』を避け、王陽明の『古本大学』が使用された。王陽明は、朱子の章句本が『礼記』の原文に錯簡ありとして改編したのを不可として『大学問』を著してその説を述べた。この『古本大学』にはその『大学問』が附載されている

現存する茨田家蔵書128部のうち、漢籍類が54部と群をぬいて多くを占め、なかでも四書・五経や朱子学のテキスト注釈書が多く見られます。しかし、天保期に郡士によって購入さ冷た大塩の著作『洗心洞学名学則』、『儒門空虚聚語』(天保4年刊)、『増補孝経彙註』(天保6年刊)は、茨田家の朱子学的な蔵書構成に変化を与えることになりました。

大塩平八郎の乱

 天保8年(1837)2月19日、大坂町奉行元与力で陽明学者であった大塩平八郎が、門弟とともに幕府政治の改革をもとめて蜂起します。
 大塩は「檄文」を発して賄賂政治を糾弾、飢饉のさなか有効な対策も示さず将軍宣下の儀式のため江戸へ廻米する町奉行や暴利をむさぼる豪商などを襲って天誅を加え、貪商らが蓄えた金銀米穀を窮民に分配する計画でした。2月6日から蔵書を売り払った代金620両余を1万軒に1朱宛施行し、「もし天満に火事があれば駆けつけよ」と農民に指示します。しかし決起の直前、内部の裏切りによって計画が洩れ、予定を早めて出撃します。一党は門弟や近傍の農民などおよそ70〜80人ほどで、救民の旗をかかげ与力・同心の屋敷に火を懸け、天満は火の海になりました。船場では鴻池などの豪商を焼き払って金穀を路上に分散し、上町から淡路町に至り、二度の砲撃戦の後大塩一党は壊滅します。この間およそ半日、火災は大坂三郷の五分の一に及び「大塩焼け」といわれました。大塩は養子格之助とともに市内靫油掛町の美吉屋に潜伏中を幕吏に急襲され、自ら火を放って自刃します。
 乱には門真三番村の豪農茨田郡士や高橋九右衛門なども参加しています。乱の関係者は787人に及び、磔・獄門・死罪となったのは、与力・同心・豪農ら40人の門弟で、その多くは縁戚関係で結ばれていました。
近年、大塩は乱の直前、幕閣に不正無尽の調書をはじめ幕政改革の「建議書」を送っていたことが判明しています。
 乱後大坂市中では大塩を貴び敬う者も多く、越後柏崎の生田万の乱、能勢の山田屋大助の一揆などが直接の影響のもとで起きました。支配体制内部の反乱は、幕府に衝撃を与え、天保改革の要因となり、幕藩体制の危機を天下にしめすこととなりました。
 そして、乱後わずかに三十年で明治維新を迎えることになります。

大塩平八郎が挙兵に先立って作らせた木版刷のもの。版木は、毎行横に五、六字ずつ彫らせ、美濃紙五枚続きに印刷してあります。鬱金色(うこんいろ)の加賀絹の袋にいれ、裏に伊勢大神宮の御祓いが貼り付けてありました。

大塩勢は乱に際し、中央に天照皇太神宮、右に湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)、左に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書いた一流と五七の桐に二ツ引きの印を付けた一流を押し立てた。

大塩平八郎が自分の蔵書を売って620両余の金を得、窮民1万軒に1朱づつを施行した時の引き替え札です。施行は乱の直前、2月の6、7、8の3日間行われた。大塩は施行札を渡す時、「天満に火事があれば必ず大塩邸に駆けつけよ」と指示していました。

大塩平八郎の乱に際し、大塩勢の先頭に掲げられた「救民」と大書された旗。大きさは四半(縦三、横二の割合)。   

乱の後、大坂町奉行は大塩一党を罪人として手配する。その時出された触の写し。
この人相書には、大塩平八郎の特徴として「顔細長、色白方」「眼細し、釣候方」「背常体、中肉」と記されている。

『門真町史』によると、乱後、郡士は先祖の墓がある野崎慈眼寺に赴き、そこで自害しようとします。そのとき所持していたのが、この短刀といわれています。しかし慈眼寺の僧に説得され、大坂城代土井利位(としつら)の平野郷陣屋に自首しました。

2月19日早朝勃発した大塩の乱はわずか半日で収束しますが、事件関係者への吟味・処罰は続けられます。郡士・九右衛門は獄中で死亡しますが、その死体は塩漬けにされ、大坂市中を引き廻されたあと、磔にされました。

茨田家の再興

 当主郡士が傑、女房のぶは押込、田畑・家屋敷は没収された茨田家でしたが、家を再興する動きは早い段階から見られました。郡士の姉ひでが嫁いだ星田村和久田市兵衛の次男徳五郎(郡士にとっては甥にあたる)を郡士の娘ふじと結婚させることで郡士の跡を継がせます。
 また田畑も村方に買い戻され、事件前に比べて半減したものの、持高30石の地主として再出発することになります。そして、事件から10年後の弘化4年(1847)6月3日に百姓株が復興し、名実ともに茨田家は再興されます。このように茨田家が再興された背景には、村という共同体の結びつきの強さに加えて、近隣豪農との間に姻戚関係があったからです。その後、秀太郎―ひろと家を継ぎますが、昭和44年(1969)ひろの死によって門真の名家はその歴史を閉じることになります。

事件からわずか3年後の天保11年(1840)、「相続人徳五郎」ヘ田畑・家屋敷を引き渡す話が進んでいることが、この史料から断片的ではありますが判明します。差出人には郡土の兄・別府村八作、郡士の甥で徳五郎の兄である星田村庄九郎、郡士の妹の婚家である平池村与兵衛、郡士の母じゅんの生家である下村忠右衛門が名を連ねています。

この史料には事件後の家族の生活費や家の再興にむけて、田畑を買い戻すために要した経費が記されています。実際に要した費用は銀40貫あまり、現在のお金で5200万円位になります。それでも不足が生じたため、土地を売り、茨田家は持高30石の地主として再出発します。





相蘇一弘「大塩の乱の関係者一覧
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