Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.12

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大塩の乱関係論文集目次


「檄 文 に つ い て」

向江 強

『茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱』
門真市立歴史資料館 2002.1 より転載


◇禁転載◇

「檄文」について

 まず檄文の現代語訳を掲げ、語句の解説を付した。


天よりくだされましたもの *1 村々小前百姓に至る迄へ *2

「天下の人々が困窮したならば、天の恵みも永く絶えるであろう」 *3 「道義に欠けた小人に国家を治めさせたならば、災害は、相次いでやってくるであろう」*4 とは昔の聖人が、深く天下後世の、人の君となるもの、人の臣となるものに誡められたもので、東照神君家康公も「年とって身よりのない者や幼くして身よりのない者に、もっとも憐れみを加えられることこそ、仁政の基本である」*5*6と申された。にもかかわらず、ここ二百四、五十年、太平がつづく間に、しだいに上の位に立つ者が贅沢で驕りを極め*7、大切な政治にたずさわる諸役人は、賄賂を公然と受け渡ししている。また奥向き女中の縁故で、道徳仁義も知らない卑劣な者でも立身して重役に昇進し、自分の一家だけを肥やす工夫だけに知恵を使い、その領分の民百姓共へは過分の御用金を申し付けている。これまでの年貢・諸役にさえ非常に苦しんでいる上、このように無理無体を申し渡され、つぎつぎに入用が嵩み、ついには天下の困窮となった。このため、上を怨まぬ者がない様になつてしまつたのだが、江戸表から全国がすべてこうした有様に落入っている。
 天子は、足利家の執政以来、とりわけ御隠居同様で、賞罰を与える権限を失われており*8、人民の怨みは、どこえ告げ訴えるにも訴える所がないように乱れてしまった。このため、人々の怨みが天に通じ、年々地震火災、山崩れ、洪水の外、色々様々の天災が流行し、終に五穀が実らず飢饉になってしまったのである。
 これは皆、天より深く誡められる有難いお告げではあるが、一向に上に立つ人々が気付かず、その上小人奸悪の連中が大切の政治を執り行い、ただ下の者を悩まし、金、米を取り立てる手段ばかりにかかわっている。
 実に小前百姓たちの難儀を、吾等のような者は、草の陰から常々察して悲しんでいたが、殷の湯王*9、周の武王*10 のような権勢も地位もなく、孔子・孟子のような道徳もないので、徒に蟄居しているばかりであった。
 この時節、米価はますます高値になり、大坂の奉行や諸役人は、「万物一体の仁」*11を忘れ、得手勝手な政治を行っている。
 この地の米不足をよそに江戸へ米を回し*12、天子のおいでになる京都へは米を回さないばかりか、五升、一斗ほどの米を買いに来ても、逮捕するなどしている。昔中国で葛伯という大名が、農夫に弁当を運んだ子供を殺したのと同様で*13、言語道断のことである。
 どこの土地であろうと、人民は徳川家の御支配に違いはないのに、このような差別をするのは、まったく町奉行などの不仁のせいである。
 その上勝手わがままの触書などを度々出し、大坂市中の游民ばかりを大切にするのは、前にも言ったとおり、道徳仁義を弁えない卑劣な者のするところで、甚だ厚かましく、不届きの至りである。且つ、三都のうち大坂の金持ち共は、年来諸大名へ貸し付けた利息、扶持米などを莫大に掠めとり、未曾有の裕福な暮らし振りで、町人の身分でありながら大名の家老、用人格などに採用されている。また自分の田畑新田などを夥しく所持し、何の不足もなく暮らし、この時節の天災、天罰を見ながら畏れもせず、餓死する貧乏人や乞食を救おうともせず、自分は膏梁の味*14だと言って結構なものを食い、妾宅などへも入り込み、或いは揚屋茶屋*15 へ大名の家来を誘い、高価な酒を湯水のように呑み、この難渋の時節に絹服をまとった役者*16 を妓女とともに迎えて、平生同様の遊楽に耽るのは一体、どうしたことであるのか。これでは紂王夜毎の酒宴も同様で*17、そのところの奉行諸役人は、手にした権力をもってこれらのもの共を取りしまり、人民を救うこともできず、日々堂島の相場ばかりを弄んでいる。まったく禄盗人であり、決して天道聖人の心に叶わず、お許しのないことである。蟄居の我らも最早堪忍することが出来ず、湯王や武王の権勢、孔子、孟子の道徳はないけれど、致し方なく天下のためと思い、血族の禍を犯し*18、この度有志の者と申し合わせ、民を悩まし苦しめる諸役人を、先ず誅伐し、引き続いて驕りに長じている大坂市中の金持ちの町人共を誅殺する。そして彼等が穴蔵に貯えている金銀銭等、あちこちの蔵屋敷に隠している俵米などを、それぞれ分散配当するつもりである。
 よって摂津・河内・和泉・播磨の国々のうち、田畑を持たない者、持っていても父母妻子などを養えぬほど難渋している者へは、この金米を取らせるので、いつでも大坂市中に騒動が起こったと聞き伝えたら、里数をいとわず一刻も早く大坂へ向かって駆け付けよ。銘々へこの米金を分け与えよう。これは鉅橋鹿台(紂王の倉の名)の金・粟を民に与えたという武王の故事にならい*19、さしあたっての飢饉難儀を救い、若し又、その内優れた人物・才能の者があれば、それぞれ取り立て無道の者を征伐する軍役にも使うつもりである。
 これは全く一揆・蜂起の企てと違い、追々年貢・諸役までを軽減し、改めて中興の神武帝の政治のように、寛大で情け深く、度量の大きい取り扱いをし、年来の驕奢、隠逸の風俗をすっかり改め、質素な生活に立ち戻り、天下の人民がいつまでも天恩を有難く思い、父母妻子を養うことが出来、生きながらの地獄を救い、死後の極楽成仏の世界を目の前に見せ、堯・舜・天照皇太神の時代を再現できなくても、中興の神武帝の政治に回復させようというのである。  この書き付けを村々へ一々知らせたいとは思うのだが、数が多いことでもあり、最寄りの人家の多い大村の神社へ張り付けておくので、大坂から回された番人などに知られないように心懸け、すぐに村々に触れ知らせてほしい。万一番人共が見つけ*20、大坂四ケ所の奸人(悪人)*21 共へ注進するような様子があれば、遠慮なく皆で申し合わせ番人を残らず打ち殺すがよい。
 もし騒動が起こったのを聞きながら、疑って駆け集まらなかったり、遅参するようなことがあれば、金持ちの米金は、皆火中の灰になり、天下の宝を取り失うことになる。あとから必ず我等を恨み、宝を捨てる無道者と陰口をいわないでほしい。そのため一同へ触れ知らせるのである。なおこれまで地頭村方にある年貢に関する諸記録・帳面類*22はすべて引き破り焼き捨てよ。是は深い思慮のあることで、人民を困窮させないつもりのことである。
 然しながら、この度の一挙は我が国の平将門・明智光秀、中国では劉裕*23・朱ホ*24の謀反に似ているという者が、きつと有るのも道理ではあるが、我等一同心中に天下国家を奪い取ろうという欲念から事を起こしたのでは決してなく、これは日月星辰の神鑑*25 によるものなのである。結局は湯王・武王・漢の高祖*26・明の太祖*27 が民を吊い、君を誅殺し、天討をおこなったような誠心から出たものに外ならない。 もし疑わしく思うならば、我等の所行の終わるまでを、汝ら眼を見開いてよく見よ。
 但し、此の書き付けは、小百姓へは、道場の坊主、或いは医者などからじっくりと読み聞かせよ。もし庄屋・年寄が目前の禍を畏れ、自分だけ読んで隠しておいたならば、追って必ずその罪が追及されるであろう。
  天命を奉じて天討する*28
 天保八丁酉年月日     某
  摂津・河内・和泉・播磨の村々
   庄屋・年寄・並びに小前百姓共へ


語句解説

*1 天より被下候 これを天が生んだ民である村々の小百姓へ として、生民思想に基づいて解釈するとする考えもあるが、天が人民に告げる文章であるという理解の方が自然である。
 天という概念は、中国思想の核心ともいうべきものである。殷代には、天は<上帝>の支配するところだと考えられ、王は卜占によって、風雨、豊凶、都市の創建、外征などの可否・吉凶を尋ねた。周代には、<上帝>にかわって天と表現されるようになり、殷が天命によって周にとつて代わられたとされるように、天は、有徳の王のみに、統治の大命を下すという、道義性と政治性をもつことを示していた。
 春秋戦国期には、天のこうした性格は次第に変化し、天体の整然たる運行、四季の規則正しい推移をつかさどる宇宙の秩序を、天の行う理法的なものとする立場や、人々の生死寿夭・貧富禍福などの命運を支配するもの、天の運動を社会的なものから切り離し自然現象に因果関係・法則性を見出そうとするものも現れた。この時期いわゆる「易姓革命」の思想が出現した。「易姓革命」は孟子が唱えたもので、天子が暴虐な政治をおこなつたとき、天は命を改め、新たに天命をうけたものが、武力によってこれを誅殺、打倒すること(放伐)が許されるとするものである。しかもこの革命の天の意志は、人民の声によって表されるとされた。殷の湯王が夏の桀王を伐ち、周の武王が殷の紂王を討伐してそれぞれ新王朝を創始したのがその典型とされる。
 「檄文」では、「湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ」とか「湯武の勢孔孟の徳はなけれ共、無拠天下のためと存じ」とかと湯武・孔孟の名をかざして一挙の正当性を主張している。また、「湯・武・漢高祖・明太祖民を吊、君を誅し、天討を執行」とか「奉天命致天討候」の文言は、疑いもなく「易姓革命」の思想を表明している。
 前漢の董仲舒は、天と人とは、互いに感応し合うという「天人相関」の説を主張した。これは天子が道を失う政治をすれば、天は災害・怪異を下して譴告するという。天譴ともいわれた。この思想は「檄文」でも「人々の怨気天に通じ、年々地震火災山も崩、水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成り候、是皆天より深く御誡めの有りかたきお告」であるなどといっているのはこの思想に基づくものである。
 尚、大塩の天は、太虚と同一の概念である。
*2 小前のもの 小前の百姓をいうが、田畑を少ししかもたない者、あるいは村役人以外の本百姓、無高も含めた弱小な百姓、さらには小作人を言う場合がある。
*3 四海困窮、天禄永終 『論語』堯曰にある。『書経』にもあるが、大禹謨は四世紀頃の偽古文との説があり、ここでは『論語』を出典とする。大塩は、朱子の理解に従い、政治が中庸を失し、四海の人々が困窮すれば、天の恵みは永久に絶えるであろうとの意味で使っている。
*4 小人に国家をおさめしめば災害並び至 『大学』最後の章句である。この語に続いて「善きもの有りと雖も、亦た之を如何ともする無し。此れを国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す、と謂うなり」とあり、現代の政治家のよく学ばねばならないところであろう。『書経』大禹謨に「小人位に在り、民棄ててんぜず、天之に咎を降す」と同意義の文もある。
*5鰥寡孤独 『孟子』梁恵王下編に、「老いて妻なきをと曰い、老いて夫なきをと曰い、幼くして父なきを孤と曰い、老いて子なきを独と曰う。此の四者は、天下の窮民にして、告ぐるなき者成り。文王、政をし仁を施すに、必ずの四者を先にす」とある。
*6 仁政 『孟子』離婁編に、「堯舜の道も、仁政をいざれば天下を平らかに治むることわず」とある。
*7 驕奢 驕は思いあがる。奢は贅沢する。
*8 賞罰の柄 恩賞を与え懲罰を下す君主の権限。
*9 湯王 前18世紀ごろの殷の初代の王。民心の離反した夏の桀王を滅ぼして殷王朝を創設した。『書経』『詩経』などに高徳の王として讃えられている。
*10武王 前11世紀ごろの周初代の王。殷の紂王を滅ぼして鎬京に都して、一族功臣の封建などにより、周の基礎を築く。父文王とともに王者の範とされる。大塩は、乱に際し、湯武両聖王の幟を立てた。
*11 万物一体の仁 『二程全書』巻二に、「仁者は天地万物を以て一体と為す」とあり、王陽明は、『伝習録』において「其の心学純明にして、以て其の万物一体の仁を全くすることにあり」とし、大塩は、『洗心洞箚記 』下巻八十一条において「聖人は天地万物を以て一体と為し、其の人物を視ること猶吾が首足腹背手臂のごとし。故に人物の病痛は即ち我が病痛なり。是を以て吾が心のむ所の者は、ても人に施さず。是れ之を天地万物を以て一体と為すと謂うなり」とある。
*12 江戸へ廻米 大坂や京都の米不足を無視して大坂町奉行跡部山城守が、老中の命をうけて、江戸へ廻米したこと。しかるに大坂市中では、米の他所積みを制限し、市外から五升一斗位の米を買いにきたものを逮捕した。
*13 葛伯という大名其農人の弁当を持運び候小児を殺 葛伯という大名が、穀物がないという理由で祭祀を怠るので、湯が壮丁を出して葛の地を耕作させ、老弱の者にその食物を運ばせたところ、葛伯はこれを運ぶ童子を殺し、その物を奪ったという。『書経』にある。
*14 膏梁の味 膏はあぶらののった肉、梁は米の飯。併せて美食のこと。
*15 揚屋、茶屋 揚屋は遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家。茶屋は客に飲食遊興させることを業とする家。
*16 かわらもの 河原者。役者。
*17 紂王長夜の酒盛 殷朝最後の王である紂王が、夜毎に美女を侍らせ酒宴したという故事。
*18 血族の禍をおかし 近世の縁座法では、謀叛・主殺しなどの重罪で処罰されたものにはその類が一族に及び、火罪・磔・獄門に処せられた者の妻子も処罰された。武士については、死罪の者の子は遠島に、遠島者の子は、中追放となった。大塩格之助の子弓太郎(当時三才)は、幕府側の判断で大塩平八郎の子とされ、死罪となるところであったが幼年のため、大坂で永牢となった。
*19 鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意 鉅橋鹿台は殷の紂王が財物を入れた倉。『書経』に「鹿台の財を散じ、鉅橋の粟を発し大いに四海にえて、万姓悦服す」とあり、武王が殷の紂王の倉を開いて万民に与えたこと。
*20 大坂より廻し有之番人 摂津・河内の村々には、それぞれ非人番がおかれ、大坂四ケ所の共同支配の下にあった。四ケ所─小頭─非人番というルートで統制されていたという(『部落史史料選集』3巻)。
*21 大坂四ケ所の奸人 天王寺・天満・鳶田・道頓堀の四カ所にあった非人集団で奉行所の与力・同心などの手先をつとめた。大塩は文政十二年、西組与力弓削新右衛門と結託して悪事を働いた四カ所の長吏などを検挙したことがあり、奸人と称したのである。
*22 地頭村方にある年貢等にかかわり候諸記録帳面類 年貢に関係する土地台帳等の書類を破棄せよというのは、深い思慮からくることで、年貢・諸役を軽減するなどの措置をとって人民を困窮させない為だと主張している。農民にたいする搾取・収奪の体制にメスを入れようとの意図が伺えるが、具体的には不明。
*23 劉裕 (356-422) 南朝、宋の初代皇帝、武帝(在位420-422)。貧家に生まれ東晋末期桓玄を討ち、東晋の実権をにぎり、北伐して、南燕・後秦を征服。東晋の恭帝から譲位された。
*24 忠(852-912) 五代の後梁の太祖(在位907-912)。若くして塩の密売に従事。唐末、黄巣の乱に投じ、のち唐に降り節度使となる。907年唐の哀帝を廃して即位、華北を統一した。
*25 日月星辰の神鑑 日月星辰とは太陽・月・星または星座をいう。日月星辰のごとく何の欲心もない神鑑(判断)である、という意味をもつ。また日月星辰は、天体として、四時かわらず、法則的に運動しており、大塩の太虚(天)にも通じている。従って大塩の行動は、太虚に帰する行為だという、確信を示してもいると言えよう。
*26 漢高祖(前247-前195)劉邦 前漢の初代皇帝(在位前202-前195)。農民出身で秦末の諸反乱に呼応して挙兵。項羽とともに秦を滅ぼす。のち項羽を破り、漢を建国した。
*27 明太祖(1328-1398)朱元璋 明の初代皇帝(在位1368-1398)。貧農の子であったが、紅巾の乱に投じ金陵(南京)で即位した。その後元を打倒し、中国を統一した。
*28 奉天命江致天討候 天命により、天にかわって討伐する。とするもので、明らかに放伐思想が読みとれるものである。


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檄文
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