Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
2000.4.25

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大塩の乱関係論文集目次


「檄 文 の 思 想 を 探 る

―天人相関説・革命論・箚記・建議書―」

その1

向江 強

大塩研究 第30号』1991.12 より転載


◇禁転載◇

   

はじめに

 檄文の思想を中国の天人相関説と革命説とのかかわりでいかに理解すべきかという問題と、『洗心洞箚記」が書かれた時期からの必然的な思想的展開として、檄文の思想を跡付けてみたいという思いはかねてもっていたのではあるが、ようやく今回その作業にとりかかることができた。いずれの課題もかくの如き小論では手に余るものであるが、誤りを恐れずとり組んでみたい。

 檄文の思想とは、大塩の挙兵に関するする思想である。大塩の思想とは何であり、如何にして、何故、何によって大塩は挙兵に踏み切らざるを得なかったか。檄文の思想を知るためにはこれらの問題を明らかにしなければならない。大塩の思想の体系的叙述という仕事は既に先人の業績も多く、筆者などのよくなしうるところではない。したがって、檄文の思想の根底にある革命思想、即ち易姓革命、天命説を明らかにし、これとの関連で天人相関説・災異思想をも論述することとした。

 大塩の革命説について、筆者はかつて「大塩中斎の漢詩を説む」 *1 において觸れるところがあった。基本的な考え方においては何等変更するところはないが、本稿ではより立ち入って論じたつもりである。日本における革命説を略述し『洗心洞箚記』での思想的展開と関連させて論じたのでより檄文の思想の特異性を明らかにしえたものと思っている。

 天人相関・災異説と天命説について論ずる際、先づ天について考究しておく必要がある。中国思想における天の概念は、単に天人相関・災異説や、天命説との関連のみに止まらず、中国の思想・哲学。政治論などの根底に横たわる基本的な概念であり、その歴史的な展開をみる必要もあり、簡単に論じてしまうのはその全体を尽くさないうらみを残す。しかし、あえて、行論の必要に応ずる限りで論じておきたい。

 天とは、『説文解字』に「天、顛也、至高無上、从一大」とあり、人の頭、首をいう。転じて天空の意に用いた。一説には、会意として大と一との合字で大空、転じて高い・尊いの意となし、又、大は人の意とし、一は大空との説もある。「ト辞に天邑商とあり帝の神聖なる都の意」*2 として用いられていることから、古く宇宙の主宰者、天帝として理解されていたことがわかる。殷代においては人格神としての上帝という表現から、周代においては、天といいかえて一般につかわれるようになった。天は、時空を超越した永遠の存在であり、人智や人力をも超え、社会や個人の運命をも司る力をもつものであった。紀元前十一世紀頃に生起したと思われる殷周革命を期に、新しい周の王朝の成立を根拠づけるものが天の理念であった。

 『書経』の周書には「大誥」など五誥があり、天は重要な役割を演じている。「其れ能く天命を格知する」(大誥)「天乃(すなわ)ち大いに文王に、戎殷を殪(たお)し、誕(おお)いに厥(そ)の命を受く」(「康誥」)、「天威を降す」(「酒誥」)、「天既に大邦殷の命を遐終(かしう)す」「今天は其れ哲を命じ吉凶を命じ」(「召誥」)、「天の基命定命」(「洛誥」)など、殷は天命を失って亡び、周は天命によって王業をつぐものであった。なお天は威を降す恐るべき存在でもあったが、正しい者を助け、悪者には災厄を与える道徳的権威であると同時に、理性によって認識できる法則的性格という一面をもつものでもあった。

 孔子においては、天は「天何をか言はん哉、四時行わる、百物生ず」(論語、陽貨)といって理法的なものとして現れ、孟子は道徳と性善説の根拠を天に求めた。筍子は「天行常有り、尭の為に存せず、傑の為に亡ぴず」(天論)として社会現象とは関係なく天の常道を求めた。老子は天より道を窮極のものとし、荘子においては天は自然にして理法をもつものであった。

 漢代に至って菫仲舒は、筍子の分離した天と人を再ぴ結合して天人相関説をとなえた。朱子学においても、天は理に属し、人間道徳の根源とされた。

 このように天の思想は、中国の儒教の歴史に貫通する思想であり、天命説、革命説にとっても切り離すことができないものであった。

 檄文の思想を理解するに当って当然触れなければならないものに、大塩の主著『洗心洞箚記』と共に、大塩が挙兵に先立って老中方に送った手紙(「大塩平八郎建議書」)がある。この「建議書」については仲田正之氏の編校訂による『大塩平八郎建議書』が出版された。近年における最新の大塩関係史料として貴重な業績といえる。しかし仲田氏の同書における解説には筆者として異論もあり、これについての論評も行うこととした。


【註】
*1 『歴史科学』一一○号・一九八七年九月。
*2 白川静『漢字の世界』東洋文庫。二二五頁。

     

(一)

 檄文の冒頭には「四海こんきういたし候ハゞ、天禄ながくたたん、小人に国家をおさめしめば災害并至と」とある。これは大塩の発想の基本にかかわっているものであるから、始めに述べておさたい。

 「四海こんさういたし候仕ハゞ天禄ながくたたん」とは『論語』尭曰第二十にある「尭曰、咨爾舜、天之暦数在爾躬、允執其中、四海困窮、天禄永終」を出典としている。『書経』大禹謨にも「后非衆罔与守邦。欽哉。慎乃有位、敬修其可願。四海困窮、天禄永終。惟口出好興戎。朕言不再」とあって『書経』を最も早い典拠とするものがあるが誤りであろう。なぜなら『書経』の大禹謨は偽古文とされており、その成立は四世紀といわれているからである。しかし、偽古文は、先奏諸書に散見した資料を集めて〈書経〉を復原しようとしたものであり、必ずしもこれを捨てるべきでなく、正当な評価をおこなうべきであるとする説もある。だが大禹謨の「四海困窮、天 禄永終」の八字が、『論語』からひきちぎられてさしは さまれたにちがいないという吉川幸次郎氏の説 *3もあり、やはり『論語』を先とすべきであろう。

 『論語』の「四海困窮、天禄永終」、ひいては『書経』のそれも含めて、この八字の解釈は種々あって理解に苦しむところである。大別すれば古注 *4によるものと新注 *5によるものとの二種がある。古注では、誠実に中庸の道によって政治を行え。そうすれば、四海のはてまでを困(きわ)め窮(つ)くし、天のしあわせ(「禄」)が終局に至るまで永く続くであろうと埋解する。新注では、もし政治が中庸を失し、四海の人々が困窮すれば、天禄は永久につきるであろうとする。両説とも「困窮」と「永終」の意味が全く異なっている。大塩の檄文は当然新説によっている。大塩の檄文では、「允(まこと)に其の中ちゅう)を執るべし」という『論語』における帝王の心得や、『書経』大禹謨にいう「后(こう)(君主)は、衆に非ずんば与(とも)に邦を守る罔(な)し。欽(つつし)まん哉。乃(なんじ)の位を有たも)つを慎み、其の願う可きを敬(つつし)み修めよ。」という君主の政治姿勢が前提されている。そしてこのような為政者の踏み行うべき道が損なわれていることによって、四海の困窮を来し、天禄も又永久に終りをつげるという現実批判が檄文の冒頭に示されているというべきであろう。したがって、檄文の冒頭のこの言棄は単なる冒頭の飾り文句というだけではなく、『論語』『書経』の思想の根底にある儒教教学を前提しているというべきである。

 檄文は更に、「天禄ながくたたん」につづいて「小人に国家をおさめしめば災害并至」と『大学』伝第十章中最後の文中から引用している。『大学』の第十章は、治国・平天下を釈したもので、「財用」論にまでおよんでいる点で儒教教典中、特異な性格をもっているといわれる *6。引用句の前後は次の通りである。    

 鶏豚牛羊などは、人民がこれを養って利益をうるものである。したがってすでに人民の税によって禄を得ている以上、鶏豚牛羊などを養って人民と利を争うが如きことをしてはならない。衆斂の臣(民の膏血をしぼり取る臣下)がいるほどなら、いっそ府庫の財を盗むものがいた方がましである。国は君主の私利をもって利とせず、人民の公義をもって利とするのである。およそ国家の長として、人民から専ら財貨をとりたてることのみに努力する者は、必ず小人がこれをなすのである。もしこの小八を登用して国家の政治をなさしめたならば、民を搾取することのみを務めるから、民は窮して財は尽き、上は天の怒りにふれて天災がおこり、下は人民の怒みを得て、人害がはびこるという「災害并至」の状態になろう。そのときたとえ善人、君子を登用してこれを挽回しようとしても、時既に遅く、これを如何ともすることができない。したがって国は君主の私利をもって利とせず、万民の公義をもって利とすると謂うのである。

 以上がこの節の通解である。ここにはいわゆる「給けっく)の道」の精神、つまり「人の気持を推測し、その望みをかなえる」という道と共に、小人が人民より聚斂して、国に利ありとのみ考え、悪政に終始すれば、災害は并び至るという天譴思想がみられ、更には人民の義をもって利となすべきとの民本思想が主張されている。「災害并至」という言葉には、董仲舒のいわゆる天人相関説と災異説をみることができるのであるが、檄文の処々にこの思想は散見している。以下にその筒所を示す。

 天子は足利家已来別て御隠居同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様に乱候付、人々の怨気天に通シ、年々地震火災山も崩水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候。  これは悪政・虐政が、遂には天災飢饉を見るに至ることを述べているものである。さらに檄文には「此節の天災天罰を見ながら畏れも不致」などという文言や、「決て天道聖人の御心に難叶御赦しなき事に候」ともいった辞句も見られ、天人相関説・災異説が檄文の思想の基調となっていることを知ることが出来る。

 檄文には、「湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処」から、「蟄居の我等最早堪忍難成、湯武の勢孔孟の徳はなけれ共、無拠天下のためと存」じと決起に至る思想高揚の経緯をのべているのであるが、これは天人相関説・災異説を受けて、聚斂の臣及ぴこれと結託する町人を誅戮するまでの行為の正当性を湯王・武王の革命思想によって裏付けようとするものに外ならない。

 このように見えてくると、檄文の思想を理解するには、天人相関説や災異説、ひいては天の思想、革命論にも及ぶ儒教教学の全体を俯瞰しておく必要があろう。


【註】
*3 吉川幸次郎『論語下』中国古典選5、一二三頁。
*4 魏の何晏の「論語集解」、皇侃おうがん)の「論語義疏」、(けいへい)の「論語正義」などによる注。前出吉川幸次郎『論語 上』まえがき参照。
*5 南宗の朱子『論語集註』(註 *4)
*6 島田虔次『大学・中庸上』中国古典選6、一三七貞。

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檄文
「檄文の思想を探る」その2

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