平『扨谷村氏、折角の御光来、拙者も何がな大学頭様へ、御手土産を
献上いたし度いと存じまするが、御道中お荷物になるのも御迷惑と存ず
ごぜん いさゝ
るから、御前へのお土産として聊か御聞に入れるものがござる』
と云ひましたから、谷村幸之進は何であらうかと思つた、マサカ蓄音
機の浪花節でもあるまい……其時分に蓄音機なんてへものはありやアし
ません、谷村幸之進、何であるかと思つて居ると平八郎は。
いづ
平『ソレ孰れも』
ま
と声を掛けますと、隔ての襖を左右に開く者がある、すると次の一室
には十五名ばかりの学生が、いづれも木綿の紋附に袴を着けて居並んで
をり な
居ましたが、谷村幸之進に向つて一礼を為し、後素先生の下知を待つて
居る、平八郎は。
このところ
平『林大学頭様へのお土産、此処に於て予て教へ置いたる処の、経書
を暗誦してお聞きに達するのぢや』
と未だ言葉も了らざるに一同の者は、声を揃へ一言一句淀みもなく、
朗々と経文を暗誦したのには、谷村幸之進も感服しました。
幸『イヤどうも貴公の御丹精、門人衆の勉強の程、恐れ入つたもので
ござる、主人大学頭へ何よりの土産、帰府の上、委細申し上げなば、主
さぞ
人に於いても嘸や喜ばるゝでございませう』
ひたすら ぼく
と只管感心をして、谷村幸之進には、千両箱を二人の僕に持せて旅宿
のち
に立帰りました、扨此金子に対する証文は、其後平八郎一人の名儀には
いたさず、白井孝右衛門、橋本忠兵衛、また木村司馬之助等に宛、証文
の表は林家の家来二三名の連署調印、林大学頭には裏印をいたし、三ケ
年の割戻しの証書を送つて、以前の仮証文と引替へました。
斯ういふ事から、谷村幸之進も、大塩平八郎を敬慕の念を起し、其の
後の文通にも帰府の上、主人大学頭へ、貴殿が此度の厚意を申上げたる
処、金子調達に就ての尽力は素よりの事なれども、土産として学生の経
文の暗誦に至つては、此上もなく賞讃せられたりとの事を認めて送りま
したので、大塩平八郎も満足して居りました、此時には別に平八郎も野
のち
心はなかつたが、後に至りまして此事が、少しくお話しの一端に相成ま
する。
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