Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.9.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その25

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第五席 (5)

管理人註
   

 此万太郎の母親お倉と云ふのは、モウ六十二三歳でございます、親類                             いろ/\ の間ネでございますから、今日守口の白井孝右衛門方へ参り、種々家計 困難の話しをいたしましたので、孝右衛門も気の毒に思ひ、老母と同道 をして、竹上の屋敷へ来て見ると、万太郎夫婦は火鉢の傍に、悄然とし て居りましたが。                  かん  『オゝ孝右衛門さん、今日は大層寒じまする、母がまた参りまして』  『イヤ、お袋さんも追々御快方で是れなればモウ大丈夫』          つき  と云ひながら座に就ますと、母親が。  『万太郎、今日私は孝右衛門さんの処へ往つて種々と御相談をした をした処が、夫れでは兎も角も一緒に往つて、万太郎の了簡も聞かうと                 わざ 斯う仰しやつて、此寒空に守口から態々来て下すつたのだ』  『どうも夫れは御親切に有難う存じまする』  『万太郎さん、実はね、今日このお袋が斯ういふ事を話されました のだ、お前さん方には今日までに、度々御無心を申して御恩借もあるが、 私の長の病気に就て、薬礼だの何だ彼だと云つて、思はぬ金を使つたの で、諸方に借財が出来、此年の関が越されぬとのお話しであつたが、実 際そんなに手許が苦しいのですか』  『誠に汗顔の至りで……』           び            はやまく  『そこで私もけう日の事だから、早幕に話しをしませう親類の間ネ で斯ういふ事を云ふのは甚だ因業なやうだが、物事には極りとを云ふ事       なんぼ がなければ、何程親類でも後日に不和を生じては、面白くないと思ひま すから、今日まで立替へになつて居る金の事はマア其儘にして置いて、 更に五十両の金をお金も貸し申さうが……併し、私の処も質屋渡世をし て居るから、明日の節季には金が要る其金の中をお貸し申すのだから、 何か抵当を……抵当と云つたつても、失礼ながら、五十両に対する品の あるべき筈のない事を知つて居ます、そこでお袋と相談をした処が、此 お倉さんの云はつしやるには、御承知の通り私の家には宝物がある、夫               かたな れは外でもない貞宗の名刀、其刀剣を預けるから、金を貸して呉れろと の事でした、実は夫れで私も考へた、お袋の口から貞宗を預けてゞも、     たい          こゝ      ことわ 金を借り度と云はるゝ位だから、茲で私が夫れを謝絶ると、背に腹は替 られぬと云ふ事もあるから、或ひは他人の手に預けて、ひよつと金でも                               むかう 借りるやうな事があつた日には、返金が万一にも間違へば、刀剣は先方                   いつ へ取られて了ふのは知れた事だ、コリヤ寧そ私の方へ預かつて置いた方                 か た が大丈夫だと思つたから、貞宗を抵当に取つて、五十両は貸すつもりで 斯うして出て来ました』  と云はれた時には万太郎も返事に困つて居ります、母親のお倉も傍か ら。                         もつとも     あんばい  『万太郎や、孝右衛門さんの仰しやる処は至極御正理で、此塩梅ぢ や、遠からず、アノ宝を人手に渡すやうにならうも知れないから、他人 に預けて金を借りるよりは孝右衛門さんへお預けをした方が、第一に此 竹上家の為めだから、早く然ういふ事にお願ひ申しなさい』  『ハイ、至極御正理でございますが、万太郎、如何に窮するとは云 へ、先祖伝来の刀剣を抵当として、金を借りるやうな事は致しません』  『サゝ其お前の心掛けは此母も誠に嬉しいが、何も是れが他人に預 けて金を借りるのでなし、一家親類の孝右衛門さんにお預け申して』       おつか  『イゝエ阿母様、親類でも他人でも、貞宗を預けて金を借りる事は 出来ません』  孝右衛門は是れを聞いて万太郎の顔を見て居りましたが、何やら独り うなづき 黙首まして。  『其精神、孝右衛門感服いたした、殊に親類でありながら、抵当を 取つて金を貸さうと云つたのは、重重悪かつた、無抵当で五十両お貸申 さう』  『エイツ、お貸し下さいまするか』  『如何にも貸さうが、其代りに一ツお願ひがある、唯一目だけでよ いから、其貞宗の名刀を此処へ持つて来て見せて貰ひたい』  『エツ』                       『見せられない、重代の宝と云ふ貞宗は疾うから手許にはござるま い……イヤ知らぬと思はつしやるか、常盤町の三木屋半兵衛の手に渡つ てござらう』                      そゝ  と云はれて、流石の竹上万太郎、満面に朱を灌ぎたるが如く真赤にな                   かたは   かたなかけ り、物をも云はず立上つたかと思ふと、傍らの刀架にあつたる処の小刀          もろはだ を手に取るや、忽ち諸肌脱ぎまして、小刀の鞘を払ひ。  『母上、女房、孝右衛門殿、申訳は此通り』  と既に腹を切らうといたしました、此納まりは如何なりませうか。

   
 


『大塩平八郎』目次/その24/その26

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