かたな
竹上万太郎は、如何に困窮に迫つたとは云へ、家に伝はる貞宗の刀剣
を抵当にして三木屋半兵衛から五十両の金を借り、其金が返されない為
めに家の宝を手放したのだから、母のお倉へも言訳がない、第一に先祖
きは
へ対して済まないと思つた処から覚悟を極め、既に切腹いたさうとする
とゞ
と、白井孝右衛門は其手を止め。
こなた
孝『コレ万太郎殿、早まつて何をするのだ、今此方が腹を切つて刀剣
が戻るか』
万『サア、其刀剣を無くした言訳に此腹を』
孝『イゝヤ、モウ腹を切る事はない、貞宗は此孝右衛門が今持つて来
た』
あなた
万『エツ、どうして貴下が』
と尋ねる中に孝右衛門は次の間へ立つて行きましたが、風呂敷に包ん
も と
だ刀箱を持つて、再び以前の座に就き、風呂敷を解いて箱の葢を開け、
中から取出したのが覚えのある、貞宗の名刀だから万太郎は驚いた、孝
右衛門は万太郎に向ひまして。
孝『此刀剣を斯うして、私が持つて来たのを見て、嘸不思議に思はつ
しやらうが、是れは斯ういふ訳だ、今朝早く天満の後素先生の処からお
使ひを下され、直ぐに来るやうにとの事であつたから、早速に往つて見
しか/゛\かう/\
ると、先生の仰しやるには、今度云々斯々した訳で、三木屋半兵衛から
貞宗の刀剣を買取つたが、此品は竹上万太郎の家の宝だから、万太郎の
手に戻して遣りたく思ふ、併し私から戻しては万太郎も面目なく思ふで
あらうから、孝右衛門、お前は竹上とは親類なり、殊に万太郎はお前の
せ わ
周旋で我門に入れた事だから、お前から一刻も早く戻して遣つて呉れい
と仰しやつた、其時には此孝右衛門も先生の思召し、斯くまでに門人の
事を、お心に掛け下さるかと、余りの嬉しさに落涙をした位、委細承知
やしき
仕りましたと、刀剣を預かつて先生のお邸宅を出たが、考へて見ると貴
公が今日の手許、此節季には金の要る事は知れてある、刀剣は戻つたが
お金が無いと、またもや不都合な事でもあつてはならぬと思つたから、
しか うち
コリヤ金を持つて往つて救ふに如ずと、一旦守口の家へ帰つた処へ、老
母のお倉どのが見えられて家政に就いての相談、そこで後素先生のお話
しをして、此お倉どのと言ひ合せ、同道して参つて、今の如く云つて見
た処が、切腹をして言ひ訳をしやうとは、まだしも武士の本分を忘れざ
る貴公の心底、私も大きに感心しました、此刀剣が戻つたからは死ぬる
すま
にも及ばぬ、また持つて来た此五十両で借財を済し、目出度く春を迎へ
るが宜からう』
まる よみがへつ
と宛で夢を見たやうな此場の有様に、万太郎は蘇生た心地、大塩先生
なさけ
の厚き情は申すまでもなく、白井孝右衛門が親切をも深く謝しました早
速貞宗を床の間に飾つて灯明を供へ、家内一同が大喜び、白井孝右衛門
いとま
も暇を告げて立帰りました、サア俄に五十両の金が手に入りましたので、
義理の借金を返し、買掛りの諸払をしても、まだ金が残ります位、今日
の五十円と違つて、其頃の五十両は大金でございます、竹上万太郎は斯
ういふ事から、一層恩人として、また師として大塩平八郎を尊敬して居
りました。
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