平『御前、平八郎に何か御用の趣、何事か承りたく存じまする』
にち/\
高『オゝ平八郎、苦しうない、ずつと進むが宜い、厳暑の折から日々
の勤め大儀である』
平『恐れ入りましてございます』
高『実は其方に、内々洩らし置き度い事があつて呼んだのぢやが、夫
なら
れは別儀でもない、此事は他の者にまだ知らせては相成ん事ぢやが、実
は平八郎、予も追々老年に及ぶので、当春頃から職を辞さうと思つて居
つたのぢや、併しとんと其時機がなかつたので、今日まで願ひ出さずに
いよ/\
居つたのぢやが、愈 意を決して昨日月番御老中まで辞表を出し置いたれ
ば、茲一二ケ月の間には御役御免に相成る事と思ふ、就ては其方も今日
かた
まで公務に力を尽し、予の為めにも、また一方ならぬ助力をして呉れし
かたじけ
段、辱なく存ず』
と初めて聞いたる高井山城守の辞意に、平八郎は非常に驚きまして。
平『御前、夫れは実際の事でございまするか』
高『其方に偽りを申さうか』
平『夫れでは最早江戸表へ』
こうびん
高『昨日幸便を以つて、御老中お手許まで差出したのぢや』
うつむい
平八郎は暫らく差俯首て黙つて居りました、こりや其筈でございます、
平八郎は此山城守に信任さるゝ事一方ならず、此奉行の為めには一命を賭
けても、忠勤を尽さうとまで思つて居た其人が、職を辞すると云ふのだか
ら、其失望と落胆は言葉に出す事は出来ない位、暫時の間黙つて居りまし
たが、平八郎も意を決しまして。
平『平八郎、今日まで御前の御厚遇に預かり、不肖役目を滞りなく勤め
来たりましたれども、御前が御辞職と御決心遊ばしましたる上は、平八郎
かね
も御前と進退を共に仕つるべき、予ての覚悟にございまする』
高『予と進退を共にいたし呉るゝは辱ないが、夫れには及ぶまい、其方
はまだ/゛\職を辞すべき年齢ではない、申さば今が勤め盛りぢや、予は
江戸表へ立帰つても、其方は跡へ参らるゝ新任の奉行を補佐いたし、公儀
のお為めに御奉公をいたし呉るゝやうに』
うち おとうと
平『御意にはございまするが、幸ひ家には同僚西田青太夫の舎弟格之助
てまえ
を、拙者の養子にいたしましたれば、其格之助に家を継せまして、屹度御
奉公を致させ、拙者は穏居いたし度く存じまする』
高『穏居とは余り早いではないか、予も予々其方の勤めぶり、また平素
つく/゛\
の行ひ、且つ学力等に就て熟々考ふるに、斯うして大阪の地で、組与力な
さ
どを為せて置くのは惜い事ぢや』
平『恐れ入りましてございまする』
こゝろ
高『其方は如何でも予が職を辞する上は、共に職を辞するの実であるな』
平『毛頭偽りは申しませぬ』
高『左様か』
と云つて高井山城守は、何か考へて居りましたが、暫らくして。
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