Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.9.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その30

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第六席 (5)

管理人註
   

 処が、其年の七月に至りまして、高井山城守は御役御免と云ふ事にな                 きま り、新任の奉行は曾根日向守次孝と極つて、着阪相成りました、此時に 平八郎は、養子格之助に家督を譲つて、自分は職を辞しましたる処、お 聞き届けに相成りました、然るに其願書には、隠居いたし度き旨が認め てあつたので、同僚の人々は大きに怪しみました。  『今度何ださうだな、大塩は隠居をするさうだな』           あのひと     いくつ  『隠居するツて、彼人は今年幾歳だい』  『幾歳だと云つて、三十六七だらうが、まだ四十には間があるに違 ひないよ』  『三十六七歳で隠居する奴があるだらうか、病人ならいざ知らず』          ぜん          あ  『屹度何だよ、前の御奉行が彼んなにまで贔負にして居たから、其 御奉行が退職になつたものだから、夫れや是れやで隠居をする気になら れたのだらう』  と其当座与力や同心の詰所では、大塩平八郎の隠居の噂で持切つて居 りました、前に申しました通り、高井山城守が大阪東町奉行を退職した のが文政十三年の七月……文政は十二年限りだと云ふ人もありませうが、 成程年代記を見るとね文政は十二年しかなくつて、翌年は天保元年にな つて居りますが、其天保に改元なりましたのは、文政十三年の十二月の 事でございますから、七月頃は無論文政年度でありました、そんな事は 如何でも宜いが。   のち                      なづ  扨其後平八郎は、屋敷の内を取繕ひまして、洗心洞と号けて陽明学の                       うち 塾を開き、専ら学生を集めて養成をして居ります中にも、江戸表の高井        け ふ        きつさう 山城守から、今日は便りがあるか、明日は吉左右を告げ来たるかと思つ て、内々心待ちに待つて居りましたが、天保二年を過ぎ、三年四年にな       おとづれ つても、何の音信もございませんので、天保五年午の年の二月に、江戸 表に大火がございました事を聞き、翌三月に平八郎は伊勢参宮をして、 江戸表へ火事見舞に行くと云つて、英治と云ふ学僕を供に召連れまして、 まづ奈良から初瀬を経て、伊勢の両宮を参拝し、夫れより東海道に出ま して、江戸表へと赴きました、今日だと汽車で行くのだから造作もない が、其頃は大阪を三月六日に出立し、伊勢へ廻つて江戸表まで行く日数         が、十七日間も要かりましたさうでございます。


相蘇一弘
「大塩平八郎の
出府と「猟官運
動」について」





































相蘇一弘
「天保六年、
大塩平八郎の
「江戸召命」
について
 


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