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処が、其年の七月に至りまして、高井山城守は御役御免と云ふ事にな
きま
り、新任の奉行は曾根日向守次孝と極つて、着阪相成りました、此時に
平八郎は、養子格之助に家督を譲つて、自分は職を辞しましたる処、お
聞き届けに相成りました、然るに其願書には、隠居いたし度き旨が認め
てあつたので、同僚の人々は大きに怪しみました。
△『今度何ださうだな、大塩は隠居をするさうだな』
あのひと いくつ
◎『隠居するツて、彼人は今年幾歳だい』
○『幾歳だと云つて、三十六七だらうが、まだ四十には間があるに違
ひないよ』
△『三十六七歳で隠居する奴があるだらうか、病人ならいざ知らず』
ぜん あ
◎『屹度何だよ、前の御奉行が彼んなにまで贔負にして居たから、其
御奉行が退職になつたものだから、夫れや是れやで隠居をする気になら
れたのだらう』
と其当座与力や同心の詰所では、大塩平八郎の隠居の噂で持切つて居
りました、前に申しました通り、高井山城守が大阪東町奉行を退職した
のが文政十三年の七月……文政は十二年限りだと云ふ人もありませうが、
成程年代記を見るとね文政は十二年しかなくつて、翌年は天保元年にな
つて居りますが、其天保に改元なりましたのは、文政十三年の十二月の
事でございますから、七月頃は無論文政年度でありました、そんな事は
如何でも宜いが。
のち なづ
扨其後平八郎は、屋敷の内を取繕ひまして、洗心洞と号けて陽明学の
うち
塾を開き、専ら学生を集めて養成をして居ります中にも、江戸表の高井
け ふ きつさう
山城守から、今日は便りがあるか、明日は吉左右を告げ来たるかと思つ
て、内々心待ちに待つて居りましたが、天保二年を過ぎ、三年四年にな
おとづれ
つても、何の音信もございませんので、天保五年午の年の二月に、江戸
表に大火がございました事を聞き、翌三月に平八郎は伊勢参宮をして、
江戸表へ火事見舞に行くと云つて、英治と云ふ学僕を供に召連れまして、
まづ奈良から初瀬を経て、伊勢の両宮を参拝し、夫れより東海道に出ま
して、江戸表へと赴きました、今日だと汽車で行くのだから造作もない
が、其頃は大阪を三月六日に出立し、伊勢へ廻つて江戸表まで行く日数
か
が、十七日間も要かりましたさうでございます。
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相蘇一弘
「大塩平八郎の
出府と「猟官運
動」について」
相蘇一弘
「天保六年、
大塩平八郎の
「江戸召命」
について」
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