Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.10.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その37

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第八席 (2)

管理人註
   

 其日も過ぎ、翌日は平八郎、催促と云ふ訳ではないが、御機嫌伺ひと云 ふ事にして高井山城守の屋敷へ往つて見ると、前日の如く客間へ通され、 山城守に対面しましたが、要領を得ぬ話しのみで立帰り、また二三日を経 おとな て訪ひますと、其時は用人の山田真吾と云ふのが出て、殿様は御病気だか らと云つて逢はせません、また日を替へて往つて見ると、今度用人も出て 来ないで、取次ぎの者が、殿様は御病気であるから、当分御面会は出来な いと云つて、玄関払ひを喰らはされた、是れは何も高井山城守が平八郎を 欺した訳でもなければ、不親切に取扱ふのでもない、最初ツからそんな事 は出来ないと云へば宜かつたのだが、お座敷なりに程の好い事を云つたが                           けべう 為めに、遂には却つて平八郎に会はすべき顔がないから、虚病を搆へて面 会を謝絶する事になつたのだ、                   そこで平八郎も今は全く断念し、斯んな事なら遥々来るではなかつたと 思ひました、斯うして諦めてしまふと、却つて気もさつぱりするもので、                          夫れから気を取直し、更に甲州屋銀蔵を誘ひ、英治を供れて二三日は、江 戸町々を見物し、丁度江戸表に小半月ばかり逗留して、四月の上旬に江戸     こぶん 表を出立する事になりますと、甲州屋銀蔵は乾児を四五人連れまして、川 崎手前の六郷の渡し場まで見送り、此処で挨拶をして銀蔵等は江戸へ、平 八郎は英治を連れまして、東海道筋を大阪へと立帰り、ました。  道中別段にお話しもございませんが、一説には大塩平八郎、富士山に登                      じんや つて下山した時に、富士の裾野で斯様な処へ、陣家を設けたら宜からうと、 地理を測量したなどゝ申しますが、そんな事は全くなかつたのでございま す、扨久々で大阪へ戻つて見ると、門人等は先生の帰りを待つて居りまし た事とて、一両日休息をして、直にまた教授に取掛りますやうな次第で、           なか/\ 隠居とは云ふものゝ、却々多忙でございます、併し平八郎は今度の江戸行   のち から後は、不平満々として、始終腹に一物を懐いて居りました。


相蘇一弘
「大塩平八郎の
出府と「猟官運
動」について」

相蘇一弘
「天保六年、
大塩平八郎の
「江戸召命」
について


『大塩平八郎』目次/その36/その38

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