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其日も過ぎ、翌日は平八郎、催促と云ふ訳ではないが、御機嫌伺ひと云
ふ事にして高井山城守の屋敷へ往つて見ると、前日の如く客間へ通され、
山城守に対面しましたが、要領を得ぬ話しのみで立帰り、また二三日を経
おとな
て訪ひますと、其時は用人の山田真吾と云ふのが出て、殿様は御病気だか
らと云つて逢はせません、また日を替へて往つて見ると、今度用人も出て
来ないで、取次ぎの者が、殿様は御病気であるから、当分御面会は出来な
いと云つて、玄関払ひを喰らはされた、是れは何も高井山城守が平八郎を
欺した訳でもなければ、不親切に取扱ふのでもない、最初ツからそんな事
は出来ないと云へば宜かつたのだが、お座敷なりに程の好い事を云つたが
けべう
為めに、遂には却つて平八郎に会はすべき顔がないから、虚病を搆へて面
会を謝絶する事になつたのだ、
こ
そこで平八郎も今は全く断念し、斯んな事なら遥々来るではなかつたと
思ひました、斯うして諦めてしまふと、却つて気もさつぱりするもので、
つ
夫れから気を取直し、更に甲州屋銀蔵を誘ひ、英治を供れて二三日は、江
戸町々を見物し、丁度江戸表に小半月ばかり逗留して、四月の上旬に江戸
こぶん
表を出立する事になりますと、甲州屋銀蔵は乾児を四五人連れまして、川
崎手前の六郷の渡し場まで見送り、此処で挨拶をして銀蔵等は江戸へ、平
八郎は英治を連れまして、東海道筋を大阪へと立帰り、ました。
道中別段にお話しもございませんが、一説には大塩平八郎、富士山に登
じんや
つて下山した時に、富士の裾野で斯様な処へ、陣家を設けたら宜からうと、
地理を測量したなどゝ申しますが、そんな事は全くなかつたのでございま
す、扨久々で大阪へ戻つて見ると、門人等は先生の帰りを待つて居りまし
た事とて、一両日休息をして、直にまた教授に取掛りますやうな次第で、
なか/\
隠居とは云ふものゝ、却々多忙でございます、併し平八郎は今度の江戸行
のち
から後は、不平満々として、始終腹に一物を懐いて居りました。
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相蘇一弘
「大塩平八郎の
出府と「猟官運
動」について」
相蘇一弘
「天保六年、
大塩平八郎の
「江戸召命」
について」
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