扨文政の末から天保に亘つて度々天災が起りまして、文政十一年には九
州地方に大水害があり、十三年、是れ天保元年の事で、其十三年にも、天
保三年、四年と続いて暴風雨がありましたので、諸国ともに凶作でござい
ました、大塩平八郎が江戸表へ下向したのは天保四年の三月だが、其年な
ども夏から秋へかけて季候が不順で、米穀は実らず、随つて商ひが閑だか
ら、不正な事をする人間が殖えて参ります、翌五年には米価の如きも騰貴
あたひ
して、一石の価が二百目と相成りました。
其時分は銀相場で、江戸表では金一両が銀六十匁でございまして、大阪
の方は時々の相場に依つて、一両が何十匁とは極まつて居りませんでした
が、大抵まづ八十匁位でございましたから、仮に早分りのするやうに、一
両を百目と立てましても、一石の米が二百目とすると、一斗が二十匁、一
升が二匁でございます、二匁を仮に二百文とした処で大変な事で、今日一
升が廿四五銭になつて、高価だと云つて居るよりも、其頃の一升が二百文
と云へば、場末の人民は芋は大根を刻み込んだ雑炊粥でなければ口にする
事は出来ない位、天保元年頃には、百文の銭を出せば三升の米が買はれま
したのが、僅か四五年の間に、百文に対して二合半となつたのだから堪り
ません。
そこで当時の東町奉行は戸塚備前守、西町奉行は矢部駿河守、この両町
奉行が力を合せて窮民の救助に尽力し、其時には鴻池屋、平野屋、加島屋
その他の豪家から寄附金を出しました、其時には斯ういふ落首が出来た。
『やべうれし 駿河の富士の 山よりも、名は高うなる、米安うなる』
此時には大塩平八郎も隠居の身でございましたが、救助に就いては、東
町奉行よりも西の矢部殿の方が評判が宜かつたと見える、夫れは右の落首
を見ても分つて居る、今日の如く開化しない時代から、髪結床などで二三
人集まると。
甲『源兵衛さん、茲四五年と云ふものは、如何したのでせう、大雨が降
そ あつち こつち
る、水は出る、然うかと思ふと彼方此方に火事がある、宛で水火の責苦に
遭つて居るやうぢやございませんか』
ね まんま
乙『夫れに第一斯う米の直が高くなつちやア、三度のお飯を三度ながら
食ふ事は出来ませんから、私の方なんかは薩摩芋をどつさり買込んで、お
飯の代りに芋を喰はせて居ります、夫れが為めに、家内は誠に賑やかな事
で……』
丙『薩摩芋をお飯の代りに食つて、賑やかなとは如何いふものですか』
ときところ
乙『それはお前さん、家内の者が時所を搆はずに、プーウプツと音をさ
せます』
丙『何の音を』
おなら
甲『放屁を』
甲『アツハツハツハゝゝ、併し斯んな天災の続くのは、コリヤ天の御罰
と云ふものです』
|