Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.10.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その38

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第八席 (3)

管理人註
   

 扨文政の末から天保に亘つて度々天災が起りまして、文政十一年には九 州地方に大水害があり、十三年、是れ天保元年の事で、其十三年にも、天 保三年、四年と続いて暴風雨がありましたので、諸国ともに凶作でござい ました、大塩平八郎が江戸表へ下向したのは天保四年の三月だが、其年な ども夏から秋へかけて季候が不順で、米穀は実らず、随つて商ひが閑だか ら、不正な事をする人間が殖えて参ります、翌五年には米価の如きも騰貴       あたひ して、一石の価が二百目と相成りました。  其時分は銀相場で、江戸表では金一両が銀六十匁でございまして、大阪 の方は時々の相場に依つて、一両が何十匁とは極まつて居りませんでした が、大抵まづ八十匁位でございましたから、仮に早分りのするやうに、一 両を百目と立てましても、一石の米が二百目とすると、一斗が二十匁、一 升が二匁でございます、二匁を仮に二百文とした処で大変な事で、今日一 升が廿四五銭になつて、高価だと云つて居るよりも、其頃の一升が二百文 と云へば、場末の人民は芋は大根を刻み込んだ雑炊粥でなければ口にする 事は出来ない位、天保元年頃には、百文の銭を出せば三升の米が買はれま したのが、僅か四五年の間に、百文に対して二合半となつたのだから堪り ません。  そこで当時の東町奉行は戸塚備前守、西町奉行は矢部駿河守、この両町 奉行が力を合せて窮民の救助に尽力し、其時には鴻池屋、平野屋、加島屋 その他の豪家から寄附金を出しました、其時には斯ういふ落首が出来た。  『やべうれし 駿河の富士の 山よりも、名は高うなる、米安うなる』  此時には大塩平八郎も隠居の身でございましたが、救助に就いては、東 町奉行よりも西の矢部殿の方が評判が宜かつたと見える、夫れは右の落首 を見ても分つて居る、今日の如く開化しない時代から、髪結床などで二三 人集まると。  『源兵衛さん、茲四五年と云ふものは、如何したのでせう、大雨が降               あつち こつち る、水は出る、然うかと思ふと彼方此方に火事がある、宛で水火の責苦に 遭つて居るやうぢやございませんか』                          まんま  『夫れに第一斯う米の直が高くなつちやア、三度のお飯を三度ながら 食ふ事は出来ませんから、私の方なんかは薩摩芋をどつさり買込んで、お 飯の代りに芋を喰はせて居ります、夫れが為めに、家内は誠に賑やかな事 で……』  『薩摩芋をお飯の代りに食つて、賑やかなとは如何いふものですか』                 ときところ  『それはお前さん、家内の者が時所を搆はずに、プーウプツと音をさ せます』  『何の音を』    おなら  『放屁を』  『アツハツハツハゝゝ、併し斯んな天災の続くのは、コリヤ天の御罰 と云ふものです』

   


『大塩平八郎』目次/その37/その39

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