はじめ
処が六月の上旬の事、平八郎が役所へ出勤をして居ります留守中に出
て来たのが常に出入をして居ります、京都の小間物屋久兵衛と云ふ男。
久『今日は』と云つて小間物の荷物を担いで勝手の方から這入つて参
てう
りました、お勇は恰ど台所に居りましたので。
こつち
勇『オゝ久兵衛、いつ大阪へ』
いろ/\おとくい
久『ヘイ当月はお祭りで種々御花主方の御注文の都合で、五六日も下
るのが遅うなりまして、漸く昨晩の夜船で……ヘイ大分に暑さも厳しく
こちら
なりましたが、旦那様には日々お勤めでございますが、実に当家の旦那
えら
様は豪ひお方様で、モウ先達て、八阪婆アの一件から、京都の方でも旦
そ
那様のお名を知らぬ物はない位で……ヘイ、夫れ
にまた今度弓削とか仰しやるお方の事も……ヘイ存じて居りますとも、
あなた
貴女、京都でも大評判でございます』
しやべ
と久兵衛はお世辞交りに饒舌りながら荷物の風呂敷を解きまして、重
箱を並べ。
べにへい
久『何か御用はございませんか、モウ紅平の紅がお入用でございませ
かうがい ちよつと
う、櫛に笄、簪にも一寸変つたのがございます』
さ
勇『イエ然う箱を並べて見せてお呉れでも、今日は何も買ふものはな
いから』
久『マア貴女、然う仰しやらずと御覧なすつて下さいまし』
勇『また此次に下つた時に、何か求める事にしませう』
しい どうぞ
久『左様でございますか、では強てお勧めは申しませんから、何卒今
度の時には、どつさりとお買物を願ひます』
と云ひながら荷箱を積み重ねて居りましたが、何やら紙に包んで、折
熨斗の附けたものを取出しまして。
そまつ
久『奥様、誠に麁末な品ではございますが』
と云つて差出しました、お勇は押止めまして。
いは
勇『コレコレ、久兵衛、何だか知らないが、お前から物を貰ふ謂れも
なし、旦那様は人に物を貰ふのがお嫌だから……』
久『ナニ貴女、そんなに仰しやるやうなものではございません、今度
こちら
そんな品を拵へましたので、ホンの見本も同様でございまして、当家様
おとくい
ばかりではございません重立ました御花主様へ差上げて居りますので』
さ やか
勇『然うかも知らないが、宅の旦那様は誠に厳ましいから、お貰ひ申
か
すと云ふ事は出来ない、珍らしい品なれば、此次の廻りの時に購ひませ
う』
と云つて紙に包んだものを突戻しましたので、久兵衛も斯うなると誠
・ ・ ・
テレて、手持不沙汰でございます。
久『ぢやアどうぞ此次の時に』といつて其の紙包を取つて懐中に入れ。
久『夫れでは今日は、お暇を頂きます、何うぞ旦那様へ宜しく仰しやつ
て下さいまし』
ゆき
と荷を背負つて出て行ました、お勇は仕掛て居た用事に取掛り、モウ旦
ひ
那がお退けになるであらうと其処等を取片附けながら、今台所に敷いてあ
つた座布団を取除けると其布団の下からに紙に包んだものが出た、ハテ何
だらうと手に取上げて見ると今小間物屋久兵衛が持て来た品でございます
わざ
から、忘れて往つたのか、夫れとも断つて受取らなかつたから態とこうし
て置いて帰つたのか、全体何であらうかと、別に欲しくはないが、そこは
女の事でございますから、見たいやうな気がするので、紙を開いて見ると、
べつこう
中には其頃流行の新形で、鼈甲の櫛が包んでございました。
おぼしめし
今日でございますと、鼈甲の櫛などは御婦人方も余り珍重に思召ません、
プラチナ かみかざり
何故かと云ふと、純金だとか、白金だとか云ふ髪具があるか、昔は簪の脚
そ れ むやみ あたま
に純金を使つたのがあつても其品を無暗に頭髪へ挿すなどゝ云ふ事はない、
高価なものと云へば鼈甲類か、珊瑚珠でございました、其位に思ふ鼈甲、
シカモ当世流行形の櫛でございますから、お勇は手に取つて惚れ/゛\と
見て居りましたが、併し久兵衛が何の為にめに呉るのかと云ふ事も分らず、
また忘れて帰つたのかも分りませんから、兎も角も預かつて置いて、此次
とき
に出て来た際に返さうと思ひまして、自分の手箱の中へ入れて置きました。
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