其月の末にも小間久は出て参りませんので、ツイお勇も其儘にして置
うち しま
きます中に自分も其事を忘れて了ひました位でございます、処が其翌月
は七月で、孟蘭盆会でございますから、十三日の朝からお勇は大塩家の
菩提所、天満の東寺町、成正寺へ墓参りに出掛けて居りました。
かね
処が平八郎が予てお勇に預けて置きました刀の目貫がございます、其
の目貫が急に入用なので、お勇の帰つて来るまで待つて居られませんか
ど こ しま ひきだし
ら、お勇が何方へ収つて置いたかと、手箪笥の抽斗だの、手箱を開けて
うち つ
捜して居ります中に、フト目に注いたのが小間久の持つて来た鼈甲の櫛、
そしな
上包には廉品と書いて、折熨斗が附いてありますが、誰から贈つて来た
かやう
のか名前が書いてありません、平八郎は忽ち額に青筋を現はし、斯様な
品を誰から貰つたのか、今日まで黙つて居るとは、実に怪しからぬ次第
だと、腹を立てゝ居ります処へ、そんな事とは知らず、お寺からお勇が
戻つて参りました。
あなた よろし
勇『唯今戻りましてございます、成正寺の和尚さまも、貴郎に宜くと
仰しやつていましてございます』
と云つて平八郎の顔を見ると、常に違つて怖い顔をして居ります。
あなた ど う
勇『貴郎如何かなさいましたか』
こ
平『イヤ、私は何とも致さんが、コレゆう、お前に限つて斯んな事を
も の
致すまいと思つて居つたが、お前は誰の手から斯かる品物を貰つた』
めさき
と云ひながら、今見附け出した鼈甲の櫛を、お勇の目前へ差出ました。
かね/゛\ ひ と
平『予々塵一本、紙一枚たりとも、他人から物を貰ふ事はならん、何
し
かまた■■べき筋あつて貰つたら、早速私に報らせるやうにと申し附け
しま
置いたではないか、誰からかゝる賄賂を請取つた、サア真直に云つて了
へ』
大塩平八郎と云ふ人は、随分疳癪持で、俗に云ふ虫の悪い時に、何か
い ○ ○
少しでも自分の気に適らぬ事があるとむら/\とむか腹を立てるのと、
ぺき
一旦斯うと云ひ出した事は、立通さうと云ふのが此人の一癖だから、お
こう/\ よか
勇もハツと思たので、斯々だと委細を話せば宜つたのに、返答に行詰つ
て。
こ れ
勇『アノ、此品はその……アノ此品は』
平『アノ是とは何だ』
勇『アノ実は何でございます、先月でございましたが、京都の小間久
が参りまして』
と是れから其時の事を恐る/\物語りましたが、最初尋ねられた時返
答に躊躇したので平八郎は信用しません。
平『久兵衛が置いて往つた、コレ勇、何の為めに久兵衛が、其品を置
いて帰るか、馬鹿な事を申せ』
こちら とくい
勇『全くでございます、当家ばかりではなく、まだ他の花主先へも持
どうぞ
つて行くから何卒受納をして呉れと申しました』
平『ソゝ夫れが偽りの証拠だ、鼈甲の櫛と云へば、安くては購ふ事は
出来なからう、如何に花主を大切に思へばとて、高価の品物を贈与すべ
き謂はれはない、尤も商人の事だから、年末と中元に、聊かの進物はせ
ぬにも限らぬが、夫れにしても皆夫々平日買物の多寡に応じて、相当の
品を贈るのが当然の事でないか、小間久がまた、一旦其方が断つたもの
を、黙つて置いて帰つたなどゝ、左様な辻褄の合ぬ事を申して、此平八
ごまか
郎を瞞着さうとしても、其手は喰はぬぞ』
勇『イエ決して私は、貴郎に嘘偽りは申しません』
平『そんなら夫れに致しても、何故其後に斯様々々であつたと私に話
しをせぬのか、今日畢竟私の目にとまつて、尋ねたから左様な曖昧なる
事を申すのは、甚だ宜しくない』
どうぞ
勇『ツイ失念をいたしまして、誠に申し訳がございません何卒御勘弁
をなすつて下さいまし』
かね/゛\ るす
平『イゝヤ他の事と違ふ、予々私の不在中、如何なる事を申して何品
を持参いたすとも、貰ふ事は素より、預かり置く事も相成んと、堅く申
し附けてあるではないか、其れにも係はらず、斯様なる不正な事をいた
やしき
したからは、モウ此邸宅に置く事は相成らん……』
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