平『貴公を男と見て頼むのだが、此平八郎が所持して居る処の書籍を、
残らず買取つて貰ひたいのぢや』
河内屋喜兵衛は驚いた、大塩平八郎の家の財産と云つたら、書籍より他
には無いと云つても宜い位のもので、其代りにまた書籍は実に沢山持つて
居りました、小さな本屋などは、到底足許へも寄附かれぬ位でございます、
のこらず
其書籍を悉皆売らうと云ふのは、不思議でございますから。
喜『先生。貴下が買へと仰しやるのならば買取らない事もございません
あたひ
が、如何いふものでございますか、御承知の通り此節の不景気、米の価は
高うございますが、書物などを今売らうと云ふと、二束三文、実に馬鹿々々
しい相場でございます、斯んな事は私の口から申すまでもなく、貴下方は
なにゆえ
能く御承知でございませう、夫れにまた何故に御本をお払ひなさいますの
で……』
もつとも
平『其不審は正理千万、今日平八郎が、日頃から大切にして居る書物を
売らうと云ふのは、実に是れは止むを得ざる次第ぢや、其理由は斯様ぢや』
と是れから平八郎は、貧民救恤を思ひ立つて、最初町奉行跡部山城守へ、
御蔵米の事を願つた処が許されず、夫れゆえに町人より金を借受けて、施
行を為さんとせし処、またもや奉行に妨げられし事を語りまして。
よんどこ
平『夫れゆえに拠ろなく、所有の書籍を売却して、其金を以て窮民を救
つて遣らねば、此平八郎の男の顔が立ち申さぬ、そこで日頃から義侠心の
ある貴公に、打明けてお頼み申し、書籍を是非々々買取つて貰ひたく存ず
る』
と平八郎、熱心に河内屋喜兵衛を説き附けますと、町人ではございます
が、喜兵衛は平八郎の云つた通り、義侠心に富んで居りますから、大塩の
今度の企てには深く同情いたし。
喜『宜しうございます、如何にも手前共の方へ買受けませう』
かたじけ
平『買取つて下さるか、夫れは千万 辱 ない、実は売却と意を決してか
あらた
ら取揃へて置いたが、一応検めて貰ひたい』
喜『夫れでは兎も角も拝見をいたしませう』
と平八郎の案内で、広間の方へ往つて見ると、イヤ如何も実に沢山ござ
います、喜兵衛はまづ一通り取調べまして、五百両に買取る事と相成りま
した、其頃の五百両と云へば、今日の四五千円にも当りませうか、そこで
直段の約束をいたしまして、喜兵衛は立帰り、一日置いて五日になります
と、大八車を挽かせて喜兵衛は、別にまた金箱を奉公人に持たせて大塩の
やしき
邸宅へ参り、まづ五百両の金子を平八郎に渡して、沢山な書物類を受取り、
の せ
大八車に搭載まして、先きへ自分の宅へ運ばせ、喜兵衛は跡に残つて居り
ましたが。
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