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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第30号』


1999.10.25

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

目  次

「塩逆述 巻之七 上」
(1)賊軍器品書
(2)焼跡書付
(3)凶賊生死書
  ・「ウメチカニュース  第50弾」

○堺七堂浜の鉄砲打
○最近の佐渡情話 満藤久
○「中斎逸話」(2)

 第123回例会(『塩逆述』からは第50回)は9月27日に開催、18人が参加した。

 今回から巻之七にはいった。上・中・下に分かれて、それぞれ40丁以上あるので、1年では終わりそうにない。7巻は、釈文が到着していないという不測の事態の中で読み始めた。もっとも、明治末の写本なので、それほど読みにくいものではないはずだが、日頃釈文を頼りにしている者には心細い限りであったが、つかえつかえ読んでいった。

 目次から読んでいったが、加番、大番、城代、江川代官などの関係の史料があるので、かなり、真実性のあるものが含まれていそうで楽しみである。

巻之七上

 (1)賊軍器品書(本文では「奪取候賊徒之群器類書付」)

 「救民」などの旗の図と布地の種類・大きさ・数を書いたものは、井形さんが複製のものを展示してくださったので、史料との比較を行った。

 「四半の旗」というのがよく言われているそうだが、この「四半」とはどういうものか、議論になった。

 あとで、『日本国語大辞典』(小学館 1974 )を見ると、「四半・幟半」の項の二つ目の意味は、「武具の指し物の一種。縦三、横二の割合で、四方(正方形)に四方の半分を加えた大きさであることからいう。また、一説に、四方の半分のことで、縦二、横一の割合のものともいう。(後略)」。「救民」図を見ると、前者に近いようである。

大塩一党が幕府軍の攻撃で四散したあと、残されていた物の記録は、以前にもでてきたが、「〆大鼓」、「座布団」などはどのような目的で使う予定であったのか疑問がでた。

 (2)焼跡書付(本文では「浪華焼跡書付」)

 これも以前でてきているが、会報2、4、23号を参照されたい。5つの焼けた蔵屋敷の名がどれにもでていないのは、記録者の関心の度合を示すものだろうか。

 (3)凶賊生死書(本文では「凶賊首従之輩結局記」)

 記録が書かれたのは4月5日であるが、記録者の情報源の耳には届いていなかったのか、大塩父子の生死は空欄になっている。人名に誤記があるが、かなり正確で、その筋の者からの情報と思われる。この記録を所持していた山田安五郎については不明である。

 賊とされて名前のあがっている中で、御金奉行同心忰・村田定市という人物は、これまででてこなかったのでは、と要調査として残された。

 今回、向江先生から、「ウメチカニュース 第50弾」(1990.10.7)の提供があった。「梅田地下街新聞売店の「撤去」に反対する売店一同」が発行していたもので、大塩平八郎の名の入った落首が話題になったことがある。この実物複製を見るのは、はじめてである。何か起こると大塩の名がとりざたされるのは、大阪ならではであろうか。

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●堺七堂浜の鉄砲打●

 122回例会に出てきて、前回会報報告ににもある「堺七堂浜」について調べてみました。

 地図は、9月例会で提供しましたが、『文久改正 堺大絵図』に出ていました。

 大和川を渡って、すぐのところです。大坂に近いところというのは納得がいくものです。摂津・和泉の境にあたります。「鉄炮遠打場」は地図の中にも出ています。天保当時は海辺ではなく、西に新田が広がっています。このあたりの事情がでているので次に書いておきます。「鉄炮遠打場」については、あまり活字本になっているものはないようです。(N)

参考

『文久堺全図』(部分)

(略)

『堺市史 第3巻 本編』(堺市 1930 )p493〜494 より
「七堂浜の鉄炮操場」

【土乃/木】(ダ、あずち)弓を射る的を立てかけておくついじ

【土乃/木】の字

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最 近 の 佐 渡 情 話 満藤 久

 平成十一年の九月末から一週間、旅に出る事にした。其の行程の中に、佐渡を組み込んだ。

 佐渡を取り上げたのは、彼の平八郎の孫、弓太郎が此の地に僧籍として院棲していたのではと云う。僅かな望みをもって訪れるのも旅の一件であったからである。 大塩家は、日蓮を拝していた。佐渡は日蓮系の寺が多い。日蓮( 一二二二〜一二八二) が文永八年( 一二七一) 九月に鎌倉幕府に捕らわれ、佐渡配流になり、文永十一年( 一二七四) 赦免までの聖蹟の地であるためであろう。

 弓太郎が乱に巻き込まれたときは二歳であった。死罪を免れて大阪永牢となるが、其の後の足取りは掴めていない。

 牢死したとも、脱獄したとも、また赦免になったとも記録がない。事件は一八三七で、明治維新(一八六八)後赦免となり、健在なら三十三歳の筈である。

 乱の時四歳であった宮脇志摩の次男新次郎(幼名半七)は、維新後流人の身分を許され、一度故郷吹田へ戻っている。其の後再び流刑地壱岐へ戻って結婚し、明治六年長男の誕生を見ている(『壱岐九号』昭和四十七)。

 扨て、弓太郎は、密かに手引きされ、僧籍を求めて北上した様子が伺える。

 其の一つは、深尾才次郎が能登半島富来町福浦まで逃亡していることである。

 弓太郎も北陸道を経て、佐渡の日蓮系の寺に逃亡したのではないかと推察するのである。又一つには、酒井一先生の成正寺(大阪市北区)寺縁の永昌寺(岐阜県岡市、日蓮宗岐阜県見延派)に出家したのではないかとのお話があった。

 永昌寺では「弓太郎は当時二歳で獄につながれていたが、脱出させた人が有り、乳母と共にこの寺に逃れ、出家した。天山上人と云う。天山上人の碑もあるが、果たして弓太郎のものかどうか不明であり、確たる証左がない。

 上人の書いたと云う書、軸も有るが、これも其の城を脱せない。又乳母は尾張出身と云うから此の地と大変近いので、この寺を選んだのではないか。終わりに大塩家の菩提寺として成正寺がある。ここ永昌寺とは寺縁がある。」と。平成十一年七月十二日住職の話であった。果て天山上人とは誰なのか。

 果たして弓太郎の本当の子孫はどこでどうしているのであろうか。大塩姓を名乗る人は多かれど。

 日程もあるので、佐渡の日蓮と弓太郎に関する寺を総べて訪ねる訳にはいかない。せめて、それらしく疑わしい寺でもあればと、井形先生に相談したが。

 日蓮の流された大石寺(池上派の寺)、大石寺に関係有る寺、原流寺等のお話や、弓太郎が明治三十年( 一八九七) に亡くなった事、池田大作、創価学会、勝海舟等々の御教示を戴いたが、余りにも広大で、ピントの絞れぬまま出発日が来てしまった。

 やっと間に合ったのが、佐渡特別企画貸切バスコース日蓮佐渡聖蹟巡拝の案内と云う一枚のパンフレットであった。三日かけての島内の巡拝で、二十ケ所ばかりの寺・霊跡の記入がある。此の中のこれと思われる目星しい寺を選んで訪れることにした。

 〔末尾に日蓮、日蓮宗、日蓮系宗派、大石寺、久遠寺、身延山、創価学会、池田大作、勝海舟等の簡単解説(人物往来社)添付した。〕

 扨て、出発の前日は、折り悪しく台風十八号の接近で、強風が吹き荒んだ。ゆっくり台風で熊本県に上陸し九州北部を荒らし、厳島神社を倒壊して日本海へ抜けた。二十四日は未だ日本海能登沖をウロウロしていた。直江津港に連絡してカーフェリーが出港するか否を尋ね合わせたが、船の出港か否かは、船長の権限で我々には不明と云う。つれない返事、旅の先々には旅館其の他予約をしてあるものがある。フェリーも其の一つ、これらは皆パーになってしまう恐れが出てきた。二十五日朝は、兎に角出発する事にして、台風の後を追うようにひたすら北上した。途中何回か港に連絡したが、良い返事は得られず、兎に角来てみてくれという返事。気になるので、一時間早く出発したが、後で考えたら早く港に着いたとて、船が出る訳でも無し、待ち時間が多くなるのみであった。森閑とした待合所で待つ事暫し。やがて、佐渡小木港の往復船が入港した。其の頃風も凪いできたので、これなら佐渡島へ渡れると希望を持った。しかし、沖は波が高い。果たして大きく揺れる。立って居られない。寝転んでもズズーとすべりそうだ。一同真っ青で顔色なし。これで二時間半を過ごすのかなと皆声を潜めて、飲むものも、喰う者も居ない。入港と同時に這這の体でホテルへ駆け込んだ。残念乍らこれで佐渡巡りの半分が消えた。最初の意気込みや計画と共に。

 日蓮は我々の無能と無定見での佐渡上陸を拒んだのであろうか。台風が去って静かになった佐渡の村々は、我々には無情であった。

   平成十一年十月六日

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中斎逸話」(2)

(略)


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