Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.6.27

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『大塩の乱関係資料を読む会会報 第38号』


2000.6.26

発行人 向江強/編集 和田義久

◇禁転載◇

       目   次


第130回例会
「塩逆述 巻7 上」
(14)玉造与力より出候書(承前)
(15)江川太郎左衛門御届

○大坂町奉行は建議書を知りえたのか
○「咬菜秘記」の電子化を終えて
○大阪市教育委員会教育長から表彰受賞
○新刊紹介『精神科医が診た歴史上の事件 大塩平八郎の乱』
     『江戸町触集成 第13巻』
     『門真市史 第4巻』
○旧刊紹介『葦を刈る女 ―巷説浪花八景―』
     『奥州白河郡棚倉領常世中野村庄屋日記 天保8年』 
     『小島日記 2 天保8年』
○「大塩平八郎の切支丹検挙事件に関する文献」(吉野作造)
 

第130回例会報告

 第130回例会、『塩逆述』からは第60回は五月二九日に開催、巻七(上)の三三丁から三八丁まで読み進んだ。参加者は、一七人であった。

(14)玉造与力・出候書(承前)

 この史料は、「天保八丁酉大坂異変之砌、玉造組与力同心働前御吟味付明細書取 坂本軒鉉之助扣」と重複しているところがある。特に、後半部分は全く同じである。そこで、この史料で意味不明だった部分が「明細書取」によって明らかになる場合がある。例えば四月例会で問題になった「鴎町」は「嶋町」の書き間違いであろう。

 次に「山城守殿纏ハ古市丈市郎呼戻シ申候哉」の一節について疑問が出された。

 「咬菜秘記」では、「此纏持の直ぐに後ろへ貞が参り候て、其次へ同心を二行に立て行きしが、纏持が折々立留る後ろより、貞がサア行け歩行めと催促すること度々なりしが、東堀にて賊徒の近くなりて、浜側へ出んとせしとき、古市丈五郎が先記ハ炎上なれバ、跡へ戻りて呉よと袖引て申せしを、貞承引せずして先きへ行きし時、丈五郎に付て纏持ハ跡へ引返せし歟、其後ハ貞の先に纏持ハ立さりし」(岡本良一『大塩平八郎』p214 )とある。また「ケ様の事を聞てから熟々考へ見れバ、貞が最初浜側へ出んとて黒煙りになりて出ることならず、拠なく取て返す時、古市丈五郎が袖引張りて留めたりしを無理に引放して参り、爰で取て返してハ丈五郎に面目なしと思ひしことあり」との感想を書き留めている。

(15)江川太郎左衛門御届

 この史料を読む前に、まず、過日、現場を見てこられた松浦木遊さんから、江川太郎左衛門の手にはいるまで数奇な運命をたどった「大塩の書簡類」について、自ら作成されたレジメに基づいて報告された。

 さて、この「大塩の書簡類」については、近年その全貌が明らかにされたが、その存在自体については、すでに同時代人には知られていた。幸田成友は、その著『大塩平八郎』に次のように書いている。

 この部分の著述は、明らかにこの塩逆述の史料に基づいていると思われるが、この史料の構成は、前半の「江川太郎左衛門御届」と後半のその解説からなっている。

 ところで、大塩が乱の前日に江戸に建議書などを送っていたことを届けたのが、「山田屋」となっているが、正しくは「大坂飛脚問屋尾張屋総右衛門」である。この間違いは別として、伝聞全体が信用おけるものすれば、大塩の建議書の存在を奉行書に届けたのは、飛脚問屋尾張屋であり、奉行所は即刻取り戻しを命じたのであろう。

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 大塩は決起する二日前の一七日に建議書の送付を尾張屋に請け負わせた。尾張屋は江戸の京屋へ同日差し立てた。二一日に飯田儀左衛門(跡部山城守家老)は尾張屋に届け先に配達せず取り戻しを命じ、仕立飛脚で京屋に連絡した。京屋は三月一日に月行事山田屋へ届け、翌二日に京都大坂迄五日限請負として定五郎が江戸を出立し、四日に箱根宿定飛脚に着し、このあと事件が起こったのである。

 ところで、「二一日の飯田儀左衛門の取り戻し命令」は、「無宿清蔵定飛脚荷物切解取逃いたし候一件差出之儀伺書」(『大塩平八郎建議書』P30 )によるが、一体大塩が建議書を出したことを、奉行所はどうして知りえたのか、疑問であった。このことを例会で発言したところ、『大塩研究』に論文が載っていることを教えてもらったので、早速当たってみた。

 その論文は、藤村潤一郎氏「大塩一件と飛脚問題」(『大塩研究』第三五号)で、この件について次のように述べている。  

 ここでいっている第二番とは、「江戸三度飛脚問屋仲間仕法書 大坂之部」(文政二年九月付)史料の第二番、三度飛脚問屋中「掛板定法書之写」(文政九年九月付)のことである。

 つまり、藤村氏の説明は、文政九年の定法書をもとにした推論で、大坂町奉行の方が気づいたこととしている。しかし、実際に天保八年の大塩の乱のとき、どうであったかはほんとうのところわからない。

 ところが、今回の史料「江川太郎左衛門御届」は、明確に「平八郎乱後・大坂町奉行へ山田屋より右継立候趣申出候故、町奉行・宿次ヲ以取戻させ候」とあり、飛脚屋からの届けによって知ったことが明らかになった。

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 私設ホームページ「大塩の乱資料館」を開設して一年たちました。いろんな方の多大の協力を得て、この一年で、予定以上のものを収録できました。前に一度お配りした「参考文献」も追加していますので、現在800点以上になっています。「論文集」も井形さん、向江先生、酒井先生はじめ、転載許可をいただいた方のもの、著作権保護期間の過ぎた、鴎外、月郊の長編もあります。

 今は井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』にも取り掛かっています。現在「論文集」には70点以上収録。「資料館」としての形も整いつつあります。必ずしも正確に再現できていないと思いますが、内容を知る一助になると思います。事典の項目を今後増やしていって、「読む会」での学習に役立つようになればと思っています。最近では「大塩中斎絶板書目」を収録しました。幕府の厳しい申渡などがうかがえるも ので、本屋仲間の記録から再録しました。

 「読む会」会報もほぼ全文、『大塩研究』の目次も収録していますので、どの号に載っていたか、簡単に調べることができます。1月からはじめた「咬菜秘記」の収録も、6月でやっと全部終りました。ちょうど『塩逆述』に坂本鉉之助の関連もでてきたので、参考になりました。電子化が終ったので、検索が容易になりましたので、これからは、どこにでていたか、探しやすいと思います。もとは、字がつまって、私のような素人には非常に読みにくいので、独断で内容に見出しを付けました。これは、今後変えていける部分です。著作権の関係で底本は『旧幕府』を使いました。間違いの多いとされる『旧幕府』ですが、進んでいくうちにそういわれるのに納得しました。結果的に、比較することができました。

 『旧幕府』には第2巻第9号(1898.9 冨山房雑誌部)に始まり、『第3巻第9号』(1899.8 旧幕府雑誌社)まで、(途中出版が裳華房のときがあります)全部で7回 の連載です。現存する国会図書館の「咬菜秘記」は、原本を、鉉之助と親しかった鳥羽藩医・安藤文沢が安政ごろ謄写し、それを更にだれかが写したものです。このあたりのことは、『日本都市生活史料集成1 三都篇1』(原田伴彦編 学習研究社 1977)収録の「咬菜秘記」解説に原田氏が書いておられます。この安藤文沢の子・安藤太郎が外務省通商局長のころに写されたことが写本の前書きからわかります。原田本は、註・解説があり、一番わかりやすいと思います。この安藤太郎(同一人物だと思います)の書いた「記賊焚」というものが『事実文編』にはいっています。

 『旧幕府』収録のものは、同じ安藤本を別の人が写したものではないかと思います。したがって、違う部分があります。後半になってから、『旧幕府』本の脱落などが目立つようになりました。これは、写本そのものというより、『旧幕府』掲載にあたっての校訂上の脱落、印刷上の脱落かもしれません。ただ、『旧幕府』が正しいようなところもありました。

 最後に大塩から鉉之助に贈られた詩が書き留められているのですが、国会本は欠字になっていますが、『旧幕府』本は、正確ではなさそうですが、欠字がないので、もとの詩を復元できたらと思います。どこかに引用されているでしょうか。ご存知の方はお教えください。掲載の分量からみると、最後の2回で一挙に終っていますので、そのあたりに、脱落の原因があるのかもしれません。

 そのほか、送り仮名の違い、漢字の違い、読み下しのくせなどがあります。 国会図書館の写本にもあたってみることも必要かもしれません。 収録にあたっては、原田本、岡本本(『大塩平八郎』岡本良一創元社 1975 収録)を参考に、明らかに間違い、脱落と思えるところは補足しました。

 ホームページには、明治期のあまり入手できないものも収録したいと思っています。最近電子化した明治24年の田中従吾軒「大塩平八郎の話」「再び大塩平八郎に就て」は、宇津木のことを書いていますが、明治43年の原口令成「宇津木矩之丞臨終の実況」と同じく岡田恒庵に話をきいて書いているのに、語り手の記憶の変化もあるかもしれませんが、内容がかなり違っています。あまり重要でない、と評価されている文献もあると思いますが、どこに間違いがあるのか、自分の目で判断できるまでには至っていませんが、ときどき知らない名前がでてきたりして、興味深く読んでいます。協力いただいている方にも、なにかしら興味をもたれるところがあればと思っております。 協力いただいている方々には厚くお礼申し上げます。 また、快く著作の掲載を承諾していただいたみなさまにも、お礼申し上げます。(N)

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 ゴールデンウィークが終わったころから、私の住んでいる福島区の市議会議員さんの事務所から、私の経歴などについて何度も問い合わせがあった。

 何かあるなぁと思っていたら、六月六日午前十時、中之島の市役所で表彰するから来て欲しいと連絡がはいった。「多年にわたり、大阪市の図書館行政並びに教育文化の推進に寄与した功績は顕著」だから特別に表彰するとのことであった。誠に面映いかぎりで恐縮した。

 当日、役所差回しの公用車で、中央図書館の課長と同乗、中之島庁舎の教育長の部屋に伺った。私一人の表彰に玉井教育長、吉村教育次長、太田市議会議員、桐山中央図書館長、外嶋福島図書館長ら一〇名同席で晴れの表彰式。式のあと、記念撮影、懇談となった。

 教育長は、開口一番、私は野田(福島区)生まれの野田育ち、いまも実家があると宣言されたので、旧知にあったように話は大いにはずんだ。その上、教育長は大塩終 焉の地の建碑についても、よくご存知で、建碑に多大のご配慮を当時頂いていたから、改めてお礼を言上する一幕もあった。

 同席の太田市議会議員から、表彰は図書館行政の協力だけでなく、大塩事件研究会での活動も評価されていると励まされた。

 今回の表彰を契機に心を新たにして、私のライフワーク大塩研究を生涯学習として、さらに成果をあげたい。

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●新刊紹介

・『精神科医が診た歴史上の事件 大塩平八郎の乱』大原和雄 新風社 2000「大塩平八郎の乱」
 大塩の乱のほかに3点取り上げているが、標題の作品が半分近く占める。「檄文」と「終焉の地」写真も掲載。半谷二郎著を参考に、病跡学の観点から考察している。

・『江戸町触集成 第13巻 自天保四年 至天保十二年』近世史料研究会編 塙書房 2000
 天保8年の触れ3点収録。@ 平八郎ほかの人相書。3月のものが3月6日付で。 A大井正一郎ほかの人相書。3月のものが3月14日付で。B大塩父子自滅など。4月のものが4月14日付・4月20日付で。

・『門真市史 第4巻 近世本文編』門真市 2000
「大塩事件と茨田郡士」で藪田貫氏担当部分。40ページ以上にわたる。古河藩領平野郷陣屋絵図(古河歴史博物館)、内山彦次郎の墓碑(寒山寺)など、写真も豊富である。

●旧刊紹介

・『葦を刈る女 ―巷説浪花八景―』井上俊夫 創芸出版 1985 所収「洗心洞主人と版木師」  乱にまきこまれた版木師を主人公にした短篇。『大塩研究』にも執筆している井上俊夫氏のもの。「洗心洞通信」にも紹介がなかったようなので。

・『奥州白河郡棚倉領常世中野村庄屋日記 天保8年』 塙今昔会 1980
 4月12日付で2点の資料が紹介されている。騒動の写しは、2月25日付で桑名の大阪詰役人が江戸屋敷に申し参ったもの。3月下旬には人相書が当村に参ったという注記のある檄文の写し。解説「大塩平八郎の乱について」 。

・『小島日記 2 天保8年』小島日記研究会 小島資料館 1990
 3月4日付の日記に、乱の発生の記事が見られる。また3月15日に噂話、4月22日に大塩の死の記事が記録されている。 解説「天保八年日記について」(横山真一)によると、小島家には、別の史料があるということである。

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