所在 北区末広町成正寺に在り。本堂前蘇鉄の西側にありて南面す。
形式 位牌形。碑。御影石。高二尺四寸八分。幅九寸八分。厚八寸五分。
台石。御影石。一尺六寸三分。
刻文
中斎大塩先生墓 (正面)
明治三十年十月念門人田能村癡書 (背面)
略伝
名後素。字子起。通称平八郎。号中斎。洗心洞主人。大阪人。天保八
年三月二十七日自刃。年四十五。
平八郎祖父を政之丞成余といひ、父を平八郎敬高といふ。父早く歿せ
しより祖父の嗣となり、世職大阪東町奉行与力を襲ふ。頗る吏務に長
じ、或は耶蘇の邪党を捕索し、或は猾吏姦卒を糾察し、或は浮屠の汚
行を処断するなど功績多く、勢一時を傾く。而るに官長東町奉行高井
山城守老を以て其の職を去るや、平八郎、亦その己を知るものなきを
慨き、天保元年七月、之と進退を共にし、家督を養子格之助に譲る。
爾後幼より好む所の儒学を修め、更に深く陽明の学を究めて、困苦辛
酸修省の極を尽し、傍ら徒を延いて授く。天保八年、米価俄に騰貴し、
市民餓死するもの多きを見るや、慨然として起ち、之が賑恤を奉行に
迫りしに、言納れられず、乃ち有司を懲さむが為に兵を挙ぐ。密告す
る者ありて、事成らず。遂に逃れて油掛町美吉屋五郎兵衛方に隠れし
が発見さるゝに及んで、自ら燔死す。格之助亦之に殉す。著書に、古
本大学刮目、古本大学旁注、儒門空虚聚語、洗心洞剳記、洗心洞詩文
等あり。格之助、名は尚志、字は士行、東町与力西田青太の弟にし、
自刃の時、廿七歳といふ。
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