Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近畿墓跡考 大阪の部』(抄)

その1

鎌田春雄

大鐙閣 1922 所収

◇禁転載◇

大塩平八郎墓 儒管理人註
   

所在 北区末広町成正寺に在り。本堂前蘇鉄の西側にありて南面す。 形式 位牌形。碑。御影石。高二尺四寸八分。幅九寸八分。厚八寸五分。  台石。御影石。一尺六寸三分。 刻文 中斎大塩先生墓 (正面)  明治三十年十月念門人田能村癡書 (背面) 略伝  名後素。字子起。通称平八郎。号中斎。洗心洞主人。大阪人。天保八  年三月二十七日自刃。年四十五。  平八郎祖父を政之丞成余といひ、父を平八郎敬高といふ。父早く歿せ  しより祖父の嗣となり、世職大阪東町奉行与力を襲ふ。頗る吏務に長  じ、或は耶蘇の邪党を捕索し、或は猾吏姦卒を糾察し、或は浮屠の汚  行を処断するなど功績多く、勢一時を傾く。而るに官長東町奉行高井  山城守老を以て其の職を去るや、平八郎、亦その己を知るものなきを  慨き、天保元年七月、之と進退を共にし、家督を養子格之助に譲る。  爾後幼より好む所の儒学を修め、更に深く陽明の学を究めて、困苦辛  酸修省の極を尽し、傍ら徒を延いて授く。天保八年、米価俄に騰貴し、  市民餓死するもの多きを見るや、慨然として起ち、之が賑恤を奉行に  迫りしに、言納れられず、乃ち有司を懲さむが為に兵を挙ぐ。密告す  る者ありて、事成らず。遂に逃れて油掛町美吉屋五郎兵衛方に隠れし  が発見さるゝに及んで、自ら燔死す。格之助亦之に殉す。著書に、古  本大学刮目、古本大学旁注、儒門空虚聚語、洗心洞剳記、洗心洞詩文  等あり。格之助、名は尚志、字は士行、東町与力西田青太の弟にし、  自刃の時、廿七歳といふ。
































燔死
(はんし)
   


大阪朝日新聞「中斎逸話
井形正寿「大塩ゆかりの史蹟を訪ねる (二)


「近畿墓跡考 大阪の部」(抄)その2

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