加藤咄堂(1870−1949) 『死生観』増補 井冽堂 1906 より
平八郎の略伝……洗心洞……入学の盟……丁酉の変……滅を舎てゝ不滅を取る……死生の工夫……宇津木矩之丞
大塩中斎、通称は平八郎、名は後素、字は子起、中斎は其号なり、寛政六年を以て阿波の国美馬郡岩倉村に生る、父を真鍋市郎といひ、累世蜂須賀侯の老職稲田氏に使ふ平八は其二男なり、幼にして剛邁、浪華の大塩氏其器を愛し請ふて、これを子とす、大塩氏は天満組の与力に過ぎずと雖、家富み財豊なり、当時太平二百有余年与力の職なる町奉行に隷属する一卑職なるも其市民に直接関係あるを以て権威を弄して私福を計るもの多く、甚しきは貪婪横暴、忌憚を受くるもの少からず、大坂の士風これより乱れんとす、平八幼時より其腐敗を目撃し、感慨禁ずる能はず、年十七、笈を負て東都に遊び、専ら文武二道を究め、四裘葛を経て帰て家職を継ぎ私かに士風刷新を以て任ず、時の町奉行高井山城守、其識見の非凡なるを察し擢んでゝ、吟味役と為し、市政の疑議に属するもの皆な与かり聞かしむ、真にこれ破格の昇進なり平八亦深く其知己を感じ、誓て市政の改革を計り、獄を断ずる、厳峻、仮す所なく、事を決する果断、滞る所なし、これを以て、苞苴行はれず、姦邪其悪を掩ふ能はず、時には妖婦益田貢を誅して、民をして迷妄の信なからしめ、時には奸吏を倒して、市に怨声なからしむ、曾て寃を免るゝものあり、大に平八を徳とし、報ゆる所あらんとせしも、其贈遣を受けざるを知り、窃かに玳i*の櫛一枚を其妾ゆうに贈る、ゆう之れを受けて其頭に上す、平八大に怒り剃髪せしめて其不心得を責む、事を処するに厳なる此の如く、清廉自ら持するも亦此の如きを以て其名遠近に振ひ、士風大に革る、文政十三年、高井山山城守頽齢、劇務に堪えざるを以て上書して骸骨を乞ふ。平八これに先だちて致仕し、養子格之助をして後を嗣がしめ、自ら招隠の詩を作て曰く、
湖上烟波好正帰 無功釣漁亦応非
頼佐吾公済時効 今秋共製荷衣
と、其序の末文に曰く
余齢三十有七、職則ち微賤、而して言聴かれ、計従はれ、大政に関して衙蠹を除き、民 害を鋤き僧風を規す、豈に千歳の一遇にあらずや、而して公の進退乃ち此の如し、 義共に職を棄てて以て招隠せざるを得ず、(中略)余俗吏と雖、聖賢の書を読み、良知 の教に従事す、能く心に感ずる無からんや、公の去て権漁の伍に混ずるを見る、故 に招隠の短篇を賦す
と、如何に其知己を感ずることの深きや、爾来惟を下し諸生を教授す、堂を洗心学洞といひ、西堂には王陽明が「立志、勤学、改過、責善」の語を挙げ、東堂には呂新吾の語を掲げて徳性涵養に資す、其中に
徳性の中より来る生死変ぜず、識見の中より来る則ち時あつて変ず、故に君子は識見を以て徳性を養ふ徳性堅定なれば、則ち生ずべく死すべし、
といふあり、彼れが諸生をして、死生に安着せしめんとしたる一端を窺ふべし、かくて其門生を遇する頗る厳峻、過あれば寸毫も仮借せざること獄を断ずるが如し、其入学の盟誓を見るに、
聖賢の道を学び以て人と為らんと欲せば、則ち師弟の名正ふせざるべからず、師弟の名正しからざれば、則ち不善醜行ありとも、誰か敢て之を禁ぜん、故に師弟の名誠に正しければ、則ち道其の間に行はる道行はれ而して善人君子出づ、然らば則ち名は学問の基なり、正しふせざるべけんや、
といひ、
学の要は孝悌仁義を躬行するにあるのみ、故に小説及び異端人を惑はすの雑書を読むべからず、如し之を犯せば則ち少長となく、鞭撲若干是れ即ち帝舜を教刑を作るの遺意にして某の創むる所にあらざるなり。
といひ、又
陰かに交を俗輩悪人に締びて樓に登り酒を肆まにする等の放逸を許さず、如し一たび之れを犯せば、則ち廃学荒業の譴と同じ
といふ、彼の門人に接する秋霜の如し、こゝに於て師弟の誼益厚く、終に死生相許すに至る。
「大塩中斎の死生観」その2