Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.6.15

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「大塩中斎の死生観」

その2

加藤咄堂(1870−1949)

『死生観』増補 井冽堂 1906 より

◇禁転載◇

天保五年以来諸国実らず、米価日を追ふて騰貴し、同七年に至て益甚しく、生民塗炭に苦み、俄将に路に満たんとす、しかも幕吏之を顧みず、官稟米満つるも之を出さず、府庫財を積むも之を救はず、平八憤然として奉行跡部山城守に愬へ、大に賑恤の挙あらんことを請ふ奉行冷然たり、平八更らに之を富豪に計る、富豪も亦之に応ぜず、悲風暗澹、満市生気なし平八憐愍禁ずる能はず、遽かに所蔵の書を売りて之を救ひしといへども、これ九牛の一毛のみ、何ぞこの大患を救ふに足らむ、しかも奉行は此挙を以て私名を売らんが為めと為し之れを譴責す、暴虐此の如し平八豈に黙々として止むものならんや、義挙は企てられたり、同志四十有余名、従ふもの八百余人、先づ町奉行を討ちて其府庫を開き、次で有福の商家に放火し以て窮民を賑はさんとせり。天保八年二月十九日、黎明を以て事を挙ぐ、狂風火焔を巻て硝烟満城を鎖し、鴻池三井等の富豪悉く焼く、火二十日の薄暮に至て始めて燼す、幕吏追求甚だ力む、平八民家に潜伏し、終に其襲ふ所となるや、子格之助と共に火を放ち莞爾として焚死す、吾人は今大塩の此挙に就て是非の評論を下さゞるべし、しかも其一死を賭して民の痛苦を救はんとしたる。至誠は以て多しとするに足らざらむや、彼の識にして豈に終に身の逃るべきなきを知らざらんや、知て而して尚ほ之れを敢てす、彼れの死生観は一瞥の価値あるものにあらずや、彼其洗心洞剳記の中に曰く、

と、彼れは仁を以て大虚の徳として不生不滅の本体とし生を求めて仁を害するの非をいひぬ、これが彼が蒼生の為めに一死を惜まざりし所以にあらずや。彼れは大虚を以て宇宙の本体とし、

といひ、

といふ、これ無限絶対の太虚の上に千変万化の生滅ありとするもの、されば「春夏秋冬太虚より来り、万物を終始して循環息まず、毫も跡なきなり」といひ、生死を以て一とし、其心太虚に同じ天地に通ずべし曰く、

と、心太虚に帰す、何の滅かあらん死生抑も何かあらむ、これこの境如何にしてか至るべき。

といひて禍福生死に惑はざるは、一に学問精熟の功にありとなす、云ふまでもなく彼れの学は王陽明を継承せるもの其日間の工夫を重んじ、知行合一を貴べるは当然のみ、学問をして学問に止めしめず、彼れはこれを躬行せんことを企て、其工夫を怠らざりき、曾て近江に遊びて中江藤樹の墓に詣でゝ其門生の苗裔に就て「致良知」の幅を展観し詩を賦し

   院畔古藤花尽時 泛湖来拝昔賢碑
   余風有似比良雪 流滅無人致此知

帰るの時、彼れは湖上に於て難風に遇ひぬ、請ふ彼をしてこれを語らしめよ、


幸田成友『大塩平八郎』その65
石崎東国『大塩平八郎伝』その53


「大塩中斎の死生観」その1/その3

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