『幕末三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第一 駿州 | |||||||||||||||||
矢部の碑 駿州 |
墨江の東、深川の辺隅、儼然たる巨刹、人目に聳えて立つを見る。所謂浄心寺なるもの是なり。此寺院の裡に沿ひて、一簇の墓塋有り。而して、累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが中に、二個の花崗石、石径の一端に立てり。嗚呼、是れ、矢部駿州の碑。
勢州桑名の幽囚中に憤死したる矢部駿州の英魂は、招かれて浄心寺に帰しぬ。余、之を寺僧に尋ね、漸くにして、其碑を発見し、手づから香火を捧げ、其碑面を見るに、たゞ左の文字を刻せられぬ
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父定令 |
矢部駿州、名は定謙、通称は彦五郎。其先は、今川氏の小侯。父は定令。駿州は其第一子。寛政甲寅(六年)を以て生れ、騎番士より、累進して、堺奉行、大阪奉行を経、勘定奉行と為り、町奉行と為る。天保壬寅鳥居忠耀の讒する所と為りて、除藉、勢州桑名の幽囚に餓死す。実に此歳七月廿四日なりき。 | ||||||||||||||||
政治家的 手腕 |
徳川氏の時に当り、能臣輩出、屈指するに勝へず。而かも能吏として、絶群の才を負ひ、兼て政治家的手腕を具するもの、矢部駿州の如き、葢し前後一人歟。而して末路の惨、彼が如き、亦当時に於て、罕に見る処。 | ||||||||||||||||
一片の苔 石千古の 感慨 |
余曾て、幕末の遺老を訪て、駿州の人と為りを聞き、彼が奇才を負て、奇禍に罹りたるを悲み、今、![]()
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