『幕末三俊』 春陽堂 1897 より
適宜改行しています。
第二 家庭 | ||
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駿州の幼かりしとき、父の任所堺に従ひて徙りしが、父甞て、良柿の実を得て、之を庁の後に栽したるに、駿州之を見て父に向ひ、『此地は、奉行たる人、時々交代して、永住の地にあらざれば、美果を結ぶも、吾輩の之を甞めんこと、恐くは叶ふまじ』と云ひしに、父は、深く其言を咎め、且つ之を誡めて『汝は、未だ物の道理を弁へざれば、此の如き麁言を放つなり。若し此樹にして、良実を結ばゞ、後に来りて、奉行たる人は、之を喫して喜びなん。決して無用の事にはあらず。汝、少年にして、思慮浅ければ、能々之を慎めよ』と云へりとぞ。 二十年の後、駿州、料らずも撰ばれて、此地に奉行たりしに、父が種へたる、柿樹。鬱然として、蔭を為し、秋末に至り、朱実累々として、観に佳なりしかば、駿州感泣して、措くこと能はず、特に愛護を加へられたりと云ふ。 | |
之を誨ふ る素あり |
嗚呼駿州天成の才子といふと雖、父の之を誨ふる、素あるにあらざれば、安ぞ能く其名以て海内を動すを得ん哉。駿州を知るは、其父を知るに若くは莫し。
矢部氏の先は、駿州今川氏に仕へ、采地万石を食み、小侯と為りて戦死し、国除かれ、江都に徙り、駿州の父、定令に至りて、始めて顕はる。 定令、姓は藤原。本と原田氏の子。矢部故兵衛、養て子と為しぬ。而して定令は、大御番より、組頭、御徒頭、御目付、堺奉行、を経て、朝散大夫に拝せられ、転して、小普請奉行と為り、御普請奉行と為り、西丸御留守居を以て終りし人なり。 古賀精里の、撰したる碑文は、簡にして要を得。其中に云へるあり。
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循吏伝中 の人物 父の呼吸 に接して 成長す |
![]() 定令、設楽氏を娶りて、二男三女を生む。長は駿州即ち定謙。次は、定由。三女他に適く。而して駿州は、実に清直謹厚なる父の呼吸に接して、成長したりき。 葢し駿州の堺に在るや、八歳より十六歳までの間にてありき。而して父に従て江戸に帰るに及び、修文講武に余念なかりき。彼が、文武の師は、誰なるや、未だ聞かず。然れども、父の教を奉して、奮励学を勉めたるは、疑ふべくもあらず。精里の碑文中に
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