Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.7.12

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「矢 部 駿 州」 その2

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第二 家庭


駿州の幼かりしとき、父の任所堺に従ひて徙りしが、父甞て、良柿の実を得て、之を庁の後に栽したるに、駿州之を見て父に向ひ、『此地は、奉行たる人、時々交代して、永住の地にあらざれば、美果を結ぶも、吾輩の之を甞めんこと、恐くは叶ふまじ』と云ひしに、父は、深く其言を咎め、且つ之を誡めて『汝は、未だ物の道理を弁へざれば、此の如き麁言を放つなり。若し此樹にして、良実を結ばゞ、後に来りて、奉行たる人は、之を喫して喜びなん。決して無用の事にはあらず。汝、少年にして、思慮浅ければ、能々之を慎めよ』と云へりとぞ。

二十年の後、駿州、料らずも撰ばれて、此地に奉行たりしに、父が種へたる、柿樹。鬱然として、蔭を為し、秋末に至り、朱実累々として、観に佳なりしかば、駿州感泣して、措くこと能はず、特に愛護を加へられたりと云ふ。

 
之を誨ふ
る素あり
嗚呼駿州天成の才子といふと雖、父の之を誨ふる、素あるにあらざれば、安ぞ能く其名以て海内を動すを得ん哉。駿州を知るは、其父を知るに若くは莫し。

矢部氏の先は、駿州今川氏に仕へ、采地万石を食み、小侯と為りて戦死し、国除かれ、江都に徙り、駿州の父、定令に至りて、始めて顕はる。

定令、姓は藤原。本と原田氏の子。矢部故兵衛、養て子と為しぬ。而して定令は、大御番より、組頭、御徒頭、御目付、堺奉行、を経て、朝散大夫に拝せられ、転して、小普請奉行と為り、御普請奉行と為り、西丸御留守居を以て終りし人なり。

古賀精里の、撰したる碑文は、簡にして要を得。其中に云へるあり。

    『君、諱定令。姓、藤原。本原田氏子。矢部故兵衛君養以為子。故兵衛君為大御番。而終遵例為小普請役。明和六年七月、拝大御番、天明五年正月、転為組頭。寛政三年五月、遷御徒頭。十月拝御目付。是歳賜禄。六年六月、監幸橋門修造事。八年二月号令来掌朝見之儀。九年三月、儲君冠掌供其事。十二月監修紅葉山。十年十二月、修葺黒白二書院事畢。皆賜金及衣。十二年十二月以預編修事、実録賜金。十三年正月転堺奉行。四月拝朝散大夫。文化四年正月、転為小普請奉行、尋以修造大奥錠口内外及長局之労、賜金及衣。五年十二月、遷御普請奉行。君自大御番、連蒙遷擢、以陞此職。所経之任、莫不克称。十年正月、遷西丸御留守居。是歳八月十三日、卒、享年六十有六、葬于深川浄心寺。法号曰勇健院直道日成。』
定令は、如何の人ぞや。古賀精里云く
    君行己方正。奉身倹素。不好逸予。酷嗜和歌、又善射御。事雖細砕、毫不存怠忽之心。盖其天性也。
 
循吏伝中
の人物

父の呼吸
に接して
成長す
    奮自下僚、為時顕人。四十余年持清与動。監寮有威。撫理有恩。謹勤勲徳。垂諸貞
亦以て、彼が循吏伝中の人物として、伝ふべきものあるを知るに足らん。

定令、設楽氏を娶りて、二男三女を生む。長は駿州即ち定謙。次は、定由。三女他に適く。而して駿州は、実に清直謹厚なる父の呼吸に接して、成長したりき。

葢し駿州の堺に在るや、八歳より十六歳までの間にてありき。而して父に従て江戸に帰るに及び、修文講武に余念なかりき。彼が、文武の師は、誰なるや、未だ聞かず。然れども、父の教を奉して、奮励学を勉めたるは、疑ふべくもあらず。精里の碑文中に

    『定謙前己為御小性組、継家有志好学。』
とあるが如き、以て見るべし。

 
 


「矢部駿州」目次その1その3

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