Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.17

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大塩の乱関係論文集目次


「〔大塩中斎〕体格偉大(大国の藩老の如し)」

木村喜毅(摂津守、1830-1901)

『通俗教育 逸話文庫 学者の巻』通俗教育研究会編 大倉書店 1911 所収

◇禁転載◇


中斎名は 後素、通 称平八郎 陽明学者 大阪の与 力なり。 天保八年 米価騰貴 す。中斎 町奉行に 訴へて貧 民を賑恤 せんこと を乞ふ。 省せられ ず。是に 於て兵を 挙ぐ事成 らずして 自刃す。

大塩後素一年、彦根に至りし時、岡本黄石翁これを其家に延き、兵書の講義を聴かん事を求めしに、忽ち色を正うし、『足下、何の用ありて兵書の講義を望まるゝや、僕が甚解せざる所なり、請ふ其説を聞かん』と席を促し言ひければ、翁も意外の事に思ひ答へけるは『御承知の如く、予が祖先は兵学を以て藩に仕へ、余も不肖ながら今大夫の末班に列し、祖先の志を継がんと思ひ、幸に先生の高説を聴き、聊か国家に尽す所あらんと欲するに外ならず』と云へば、後素、稍顔色を和らげ『兵は活物なり。一二講論の尽す所に非ず。足下、若し意あらば、予が家に孫子十解といへる珍書を蔵せり。これを貸与すべし。此書を熟読せば、思ひ半ばに過るものあらん』と辞し去れり。『後素が最前辞気の獅オきには殆んど其答へにも窮したり』 とて、黄石翁の語られたり。

又同翁の話に『予が少壮の時、面会したる諸先輩の内、体貌、俊偉にして、殊に立派なりしは、渡辺崋山と大塩後素の二人なり。誰が見ても大国に藩老なるべし、との感あらしむ。吾輩、共に立ちて愧しく思ふ程なり』と。

  (笑鴎楼筆談)


石崎東国『大塩平八郎伝』その27/その73


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