「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
文化十四年丁丑先生二十五歳 | |
*1 洗心洞学堂 ノ濫觴。 *2 洗心洞余瀝 ハ先生門人 疋田竹翁ノ 談話筆記ナ リ、竹翁名 時親通称隼 之助明治三 十二年九十 才ヲ以テ京 都ニ歿ス。 |
先生此ノ頃ヨリ公余庁中子弟ノ嘱ニ応ジ文武両道ヲ教授ス、 既ニシテ一旦其門戸ヲ開クニ及ベバ実学ノ令誉高ク、城内外ノ有志子弟多ク先生ノ門ニ集ル、其ノ規模猶ホ小ナリト雖モ、東都ニ於ケル平山行蔵ノ実用館ト東西相対ス、 是レ他年幕府ノ一敵国タル洗心洞学堂 *1 ノ濫觴也。 大塩中斎事蹟云 天保二年に於ては中斎屡々有志者の需めに応じ市中近在に出でゝ講筵を開き、遂には尼崎及び高槻の藩士に招聘せられて出講するに至れり、彼が一僕を従へ馬に跨りて尼崎街道を来往するや、道路の人其厳たる威貌を見て大塩先生来ると云はざるはなし。 按ズルニ先生ノ開塾ハ年紀明カナラザレドモ、是ヨリ先キ文化八九年ニ橋本忠兵衛 名貞字ハ含章 同十一二年ニ竹上万太郎 弓奉行組同心 等ノ門人トナリシハ評定所文書ニ記スル所ニシテ、次テ白井孝右衛門 名履字ハ尚賢 庄司義左衛門 東組同心等来リ学ビ吉見九郎右衛門、渡辺良左衛門ノ従学ヲ見タル等、文化十三四年早ク既ニ門人数十人アリシヲ知ルベシ。 先生近藩諸生ノ招聘ニ応ジタルハ後年ノ事ニ属スベキモ、近藩書生入学セルモノ多ク時ニ公余門人ノ宅ニ講筵ヲ開ケル如キハ文化文政中既ニ屡々之レ在ルガ如シ。又先生ノ威貌アル諸説皆之ヲ云ハザルハナシ。 洗心洞余瀝 *2 云 大塩の容貌ですか、中々美男で御座りました、身の丈けは五尺五六寸、少し瘠せぎすですが凛とした風采はそりや立派なものです、頭の髷は短かう結うて御座りましたが、色は白い方で眼はあまり太くなく少し釣つて居りましたから、少し怒を含まれた時などはどんな者でもびくつきました。 |
*3 笑鴎楼筆談 ハ木村芥舟 ノ談話筆録 也。 |
笑鴎楼筆談 *3 云 岡本黄石翁の話に予が少壮の時面会したる諸先輩のうち体貌俊偉にして殊に立派なりしは渡辺華山と大塩後素の二人なり。誰か見ても大国の藩老なるべしとの感あらしむ。吾輩共に立ちて慚かしく思ふ程なり。
年表参考
春三月太子受禅是為仁孝天皇秋九月即位冬十二月立皇后 |
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