天正年間(一五七三−一五九一)伏見が繁栄をきわめたころ、山城八
幡の岡本与三郎が淀堤の修築を行い利益を得て大坂に来り、大川町淀屋
橋南詰で材木屋を営み、商号を淀屋、常安と号し、機を見るに敏な彼は
常に商利を博して、門前で市を立てて米、粟を売買したのが米市場のは
じまりであったという。彼は大坂陣のときに茶臼山の陣地用材を献納し
た功によって、家康から郷里八幡に三百石の朱印地を賜わった。また常
安はそののち中之島を開拓し、常安橋の名は彼がはじめて架けたからつ
うつぽ
けられた。二代目介庵は大川町の家を継ぎ靭の地を開拓し、糸割符仲間
に入って大いに儲け、寛永年間(一六二四−)には諸侯の廻米を引受け
て売却し、淀屋は米商のうち最有力なものとなった。
市中の米商はみな淀屋に集って売買し、米価の高低によって相場を生
じ、淀屋の米市として米相場所が設けられた。はじめは町家風の建物内
で取引を行っていたが、堂島新地の成るに及び元禄十年(一六九七)は
じめて堂島浜通一丁目に移って堂島の米市と呼ばれるようになった。そ
の後も正月の初相場は淀屋橋南詰で行うを例としたが、午前四時の立会
で四つ辻に篝火をたき、各店には弓張提灯をつるして賑わった。
堂島の米市は淀屋の米市の移行したもので寛文三年(一六六三)の米
切手発行の禁令は未だ解けず、従って堂島の米市も黙認の形で続行され
たものであった。八代将軍吉宗のとき、当時豊作つづきで米価が下落し、
農民が困窮するのを救うため大坂の町人に強制的に米を買わせた。その
買上高は六十万石といわれるが、その買上にあたって堂島の米仲買が非
常に協力をしたこともあり、幕府として米価の引上を策するためには米
切手の転売を許すほかなかった。享保十四年五月幕府は冬木善太郎らの
「冬木会所」を公認するなどのこともあったが、堂島の米仲買田辺屋藤
右衛門らが江戸に赴き、延売買の公認方を歎願し加賀侯に駕籠訴をなす
に至った。
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