Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その12

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  二 蔵屋敷と堂島米市場
     堂島米市場(2)
管理人註

帳合米の許
可


























会所の寄場

































帳合米の功
罪論

 かくてようやく享保十五年(一七三〇)八月大岡越前守忠相の裁きで、 「帳合米」すなわち限月限日を定めて売買する定期取引が許されること となり、大坂町奉行稲垣淡路守及び同松平日向守から大坂三郷に次のよ うな触書が出された。   一、近年米穀相場の儀に付、品々願依有之、米商人共無覚束存、相   場の障に成候様に相聞候に付、向後右類の願、一切不取上苦に候間、   大坂米商の儀、古来致来候通の仕方を以て、流相場商諸国商人竝大   坂仲買共、勝手次第に可仕侯。……  堂島の仲買株は事保十六年十二月、十七年四月、二十年七月と三回に わたって約千三百株が許され、仲買全体の取締として米方年行司がいて、 毎年十二月に交代し町奉行所がこれを任命した。年行司が出勤して株札 を扱い、売買上の紛争を裁き、また相場の書上などを行う場所が会所で 堂島船大工町(のち堂島東小学校が建ち、いま天満公共職業安定所があ        よりば る)にあった。寄場すなわち売買の場所は堂島浜通一丁目〈いまその跡 に記念碑がある)にあり、寄場は三に分れ、東が正米商、中央が帳合米 商、西が石建商の場所であった。市場の立会は規則を遵守し、違背しな い主意で、売買は仲買自身の思惑または客方の注文によって行った。正 米商は百石を標準とし、それ以下を端物といい、十石を最小額とし、帳 合米高は百石を最低額とした。  帳合米取引は享保十五年(一七三〇)の公許以来連綿として賑わった が、嘉永・安政の頃から国事の多端は大坂蔵米の入津を減少せしめると ともに、米切手の信用もまた衰えたので、長期取引を主とする帳合米取 引に堪えられなくなり、次第に石建米取引に移行することとなった。石 建商は二十石から取扱い、文久三年(一八六三)以後は帳合米商はすた れて殆んど石建商ばかりになった。なお米市場としては堂島市場のほか に明和元年(一七六四)江戸堀三丁目にも許可きれ、その分場が道頓堀 と東天満にあった。  堂島では正米を一俵も持たず、帳面の上で一人で二十万石、百万石の 売買ができた。堂島の帳合米をもって風俗をみだり、人心を害する詐術・ 奸計で天下御免の大博奕であると、賭博と投機とを混同した非難もあっ た。懐徳堂の学主であった中井竹山(一七三〇−一八〇四)もその著 「草茅危言」(寛政元年−一七八九刊)巻之九の冒頭に   「大坂ニ於テ大ニ風俗ヲ破り、人心ヲ害スル事ノ最上第一タル可  ハ、堂島ニテ帳合米卜名付クル米穀ノ不実商也」  と断じて、その廃絶まで唱えた。他方において竹山の門である山片 蟠桃(一七四六−一八八三)はその著「夢の代」(享和二年−一八〇 二刊)巻六に、彼の師に反して   「天下ノ智ヲアツメ血液ヲ通ハシ大成スルモノハ大坂ノ米相場ナ  リ」  と説いて、米価は帳合米市場によって平準な相場を期待することが できるとした。すなわち定期取引はもはや必要欠くことのできない役 割を果たしていたのであり、堂島の米相場が全国の米の価格を支配し たので「近世風俗志」にも「種々無量の商法ありとも大凡そ日本第一 の商法を当所米市とす」と記された。

   

幸田成友『江戸と大阪』その135


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