米市
享保度の米
価下落
大阪に於け
る米価引上
手段
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第七 米
米市といふ言葉は万治三年(一六六〇)の触書に初めて見える。
「大阪町中米売買に付て市を立て候儀、并手形を以先々え致 商
売 候事停止の旨、度々申渡候。弥以違背仕間敷事」とあるから、
米市といふものは万治以前に既にあつたに相違ない。堂島の米市
ヨドヤ
場は毎年正月四日の初相場に限り、淀屋橋の南詰で行はれた。こ
れは昔の淀屋の遺蹟で、町人の蔵元として最も名高い淀屋の店先
で、米市が盛んに行はれたことを記念する為めだといふことであ
る。淀屋の本姓は岡本で、元租を常安といふ。今常安橋常安町と
いふ橋名町名にその名を残してゐる。その長男即ち二代目の淀屋
を言当(个庵)といつて、これは諸家の蔵米の販売を引受け、ま
ウツボ
た靭を開拓した人で、文学にも秀で、余程な人物であつたらしい
が、五代目の三郎右衛門といふものに至り家が絶えて居る。淀屋
が闕所になつた時の主人公を通例辰五郎といつて居るが、淀屋の
系図を見ると、通称は三郎右衛門で、辰五郎といふものは無い。
兎に角大阪では淀屋が米市場の元租のやうになつて居る。
淀屋が潰れてから、今までその店先に集まつた人々は、堂島新
地の南岸に集まつて売買を行つた。その売買に二通ある。正米売
ノベ チヤウ
買即ち正米切手の取引を行ふ外に延売買があつた。延売買一に帳
アヒマイ タテモノ
合米売買とは建物米を定め、限月限日を定めて売買することで、
ウリツナギ
今の所謂定期売買である。これを売繋買繋の法とも称へた。何時
からそんな売買が始まつたか、分明に説明することは出来ないが、
延売買は表向許可せられたものでないと断言し得る。米仲買が時々
延売買のために捕縛せられ、身代を闕所に処せられた実例がある。
然るに享保度になつて米切手の転売や延売買を許す等、米の売買
につき新しい仕法が続々として行はれる至つた。その理由を了解
するには先づ当時の米相場を一覧する必要がある。享保度は七八
年の頃から豊作続きで米価が安い。十二年十二月の仕舞相場は広
島米三十六匁八分、中国米三十二匁八分、備前米三十七匁四分と
ある。諸蔵米中主位を占めるは筑前米・肥後米・中国米(周防長
門)・広島米の四蔵米、略して四蔵で、加賀米・備前米がこれに
次ぐ。それ等が皆三十目台であるから、人気は全然腐り、蔵屋敷
で払米の看板をかけても入札する者がない位で、十四年十五年に
なると愈々下落する。十五年の仕舞相場は広島米二十九匁八分、
中国米二十二匁二分、備前米二十八匁六分で、遂に二十目台を出
現した。米価の安いのは武家百姓の迷惑、商工の利益で、武家百
姓と商工とは利害相反するやうに見えるが、余りに米価が安くな
つて前者の困難が極端になると、不景気は後者にも及んで、世上
一統の迷惑となる。幕府は何としても米価を引上げねばならぬ場
合に陥つた。米切手の転売許可は勿論その一手段と認むべきであ
らう。
米切手の転売が公許せられたのは享保十三年(一七二八)七月
で、当時の触書に「向後切手証文を以延売之儀勝手次第可 被 致
候」とある。延売の二字を先手形の売買とも考へられないではな
いが、「買手段々請取候て延売有 之」とあるから、こゝでは転
売と解すべきである。従来米切手の転売は米価騰貴の傾向を促す
ものとして久しい以前から禁ぜられて居た。それを今度許可した
のは、米価を引上げるためと解釈するのが当然であらう。
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