米切手は今日の倉庫証券と同様に転売を許されるようになり、米切手
には「御当地は申すに及ばず他所他国まで聊か危踏なく金銀同様に通用
仕候」とあり、天明五年(一七八五)には江戸日本橋小網町一丁目にも
大坂表正米切手注文取次所という会所が設けられた。
蔵屋敷で蔵米を入札で売却し落札者に米切手を渡すのが正法であるが、
切手が一時に取付けられることがないのを利用して諸侯は藩の財政が苦
しくなると、金子調達のために実際に持ち合さない米の切手差出すよう
になり、これが空米切手と称された。空米切手の取締は承応三年(一六
五四)の後、宝暦十一年(一七六一)の頃にも多く、そのころから後は
禁令があっても一向に止まなかったらしい。文化十一年(一八二四)に
は筑後の有馬家の空米切手が発覚し、発行総高四十二万石の巨額に達し、
それがため市場の動揺は一方ならぬものがあった。このとき肥前佐賀藩
の空米切手も露見し、総高二十万石に上ったが何れも長期の返済を契約
して落着したが、幕府は常に諸侯を擁護し、町人が不利に陥るのを常と
した。
ところで淀屋の二代目个庵は両替屋として財産も地位も磐石となり、
寛永二十年(一六四三)十二月歿し、そのあと三代目は甥の介斎、四代
目はその子重当、五代目三郎右衛門辰五郎に至って不肖の末裔として淀
屋は果てた。
┌─常 閑
養子 善右衛門┌善右衛門─┴─常 隆
┃────┤
┌家女 きい └五郎左衛門──三右衛門
│ ┃
淀屋常安−┤又右衛門(入婿)
(与三郎)│
├言当(个庵)───女子 妙 意
│ ┃────重当───三郎右衛門
├五郎右衛門───箇(个) 斉 (辰五郎)
│
└女子(早世 一説嫁小林忠重)
(註)「経済人」昭和二十九年三月号宮本又次博士論文による
最盛時、辰五郎の家は東区の北浜三丁目から大川町へかけて周囲二百
米に達する大邸宅で、ほかに四十八戸分の土蔵がずらりとならび、その
ほか貨幣、金銀の細工物、諸侯への貸付金一億両に上った。辰五郎は十
七才の春から茶屋酒をおぼえて驕奢の限りをつくし、新町で流連し、白
無垢で大名ごっこをしたことが発覚し、町人の白無垢着用の禁にふれて
宝永二年(一七〇五)欠所の上、家財はもとより家屋敷残らず没収され
たという。
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